樹から生まれた寄生虫が
自分の樹を滅ぼしてゆく
貪欲から生まれた智慧が
貪欲の過誤を寂滅させる
本偈は秘密真言道における貪欲転道法が、本来煩悩である貪欲を道へと転用して顕教では説かれていない如来の色身を成就していく過程を、樹のなかに棲んでいる寄生虫が自分自身の寄生する樹を蝕み、腐らせて、最終的に自分自身が住めないように倒壊させてゆく過程に喩えている。
この「貪欲転道法」は顕教のように煩悩に対する対治を心に起こして抑制しようとするのではなく、自性清浄である本来我々がもち微細で心に表面化してはいない原初心たる智慧の活動を活性化させることで、粗大なる毒素を客塵煩悩の粗大な活動を抑制していく、という方法であり、その詳細は、アールヤデーヴァなどが『心障浄化論』などで明らかにした無上伽怛特羅の根本教義のひとつであるが、グンタン・リンポチェの本偈は、このアールヤデーヴァの『心障浄化論』に「樹から生まれた寄生虫が樹を食料とするように、貪欲から生じた道は貪欲を蝕むこととなる」とほぼ内容は同じものである。
貪欲とは、輪廻転生の原因のひとつであるが、特にここでは、性欲の対象と凝視あう、微笑み合う、触れあう、抱き合う、交わり合う、といった四種類の関わり方で起こってくる誤った認識、すなわちその対象を快楽の対象と錯覚し、その対象そのものの実情よりも過剰に評価し、その対象と関わることから離れたくないと望んでいる感情のことである。これは煩悩の三毒のひとつであり、すべての生命体に共通する繁殖への本能的な意志であり、この感情が如何なるものであり、その感情によって様々な問題のある感情であるありとあらゆる煩悩が如何に生じていくのか、ということは顕教で分析して学ぶことである。
もちろん正しい修行者であれば、煩悩の三毒の過失が如何なるものなのか、ということを正しい善知識から聴聞し、思索し、正しい命題から思考が逸脱しない精神状態である不浄観を培い、自己の精神を鍛錬していくことができるようにはなる。しかし貪欲の対治である不浄観を何度も転生を繰り返して阿僧祇劫かけて貪欲を完全に克服しようとしても、貪欲の原因となる痴、すなわち無明に対する対治である無我を直観する微細な智慧を心に起こさない限り、無明を克服できず、その結果、無始以来自分たちの精神に培ってきた業の力により、微細で表面化していなかった微細な貪欲が表面化し、さまざまな問題のある感情を増幅させ、最終的には苦薀を実現してしまうということになるのである。このため四聖諦のうちの道諦とは、貪・瞋の対治である不浄観や忍辱ではなく、あくまでも痴の対治である無我を現観する智慧のみである、ということになる。これのみが輪廻からの解脱を実現するものであり、それ以外の煩悩の対治となるような清浄道品はすべて、無我を現観する智慧の運用するためにそれを補助して助けるためのものであるということになる。声聞・独覚・菩薩の三乗のすべての修行者は、この道を現成することを目指し、自らの精神を向上させていくのであり、六道に彷徨い続ける輪廻の根源を断絶するために、無我空性を修習していき、止観双運の境地を目指していくことは、大乗・小乗に共通した道である。
しかし、無我を現観し、輪廻から自分が解脱した境地だけを目指すのでは、無始以来自分たちと関わり自分たちを助けてくれた無限の母なる衆生たちを見捨て、自分だけが良ければそれでよいということになる。それでは無始以来自分に大恩のある一切衆生は苦しみ悶えたままであり、自分はそれに対して何もできないということになってしまう。そこで一念発起して、この無数無辺の衆生たちを救済する能力のある一切相智の境位を目指したと決意し、菩提心を起こして、慈悲と智慧を本質とする菩薩行を行じていき、ただ単に自らの精神が煩悩から解放された寂静涅槃ではなく、一切衆生のためにあらゆる利他の活動ができる無住処涅槃の境地、すなわち如来の境地を目指しながら無我を現観することが大乗道ということになる。この大乗道においても、煩悩の三毒を断じて解脱を目指していることは小乗道の修行者と同じであるが、大乗道を修める者は、如来の智慧法身だけではなく、無限の衆生を実際に救済するために、無限の化身を化現させることができる如来の色身を成就することを目指さなければならない。このために、通常は輪廻に普通の衆生として再生する過程をその詳細までも含んだ過程を修行によって培った精神力によって、普通の衆生ではなく、菩薩や如来として衆生利益のために出現させる過程へと転化させることを修養し、利他法身を正しくかつ速やかに実現するための修練をつんでいく必要がある。この利他色身を具体的にどのように実現していくのか、ということを詳細に説いたものが、果秘密真言乗である。
この秘密真言乗は修行を行いつつある因時の時から明確に如来として生起した果時の清浄な顕現を意識的に精神に起こしていくための因時の菩薩行、すなわち六波羅蜜・四摂事に加えて、無我空性を現観する意識の対象としている所取相をそのまま如来の色身として生起させ、自らが本尊として生起する修行法である。この修行法では、通常我々凡夫が無明を起因とする貪欲が、結生相続する際に強い貪欲を起こして、再び物質である肉体を得る過程と同じように、我執ではなく楽空無差別の金剛智によって、貪欲の代わりに慈悲を本質とする精神を物象化させた利他法身を実現していく過程へと転用して、不浄観によって貪欲を抑制するのではなく、貪欲の原因となっている無明を微細かつ強靭な智慧へと置換させ、それを運用することによって、貪欲を根絶させていくのである。このような方法を「貪欲転道法」という。
これについてダライ・ラマ法王は、以前、両部曼荼羅の伝法灌頂を行なって下さった時に、水銀の例を用いて説明してくださった。ダライ・ラマ法王は、この貪欲転道法のことを、水銀の薬用利用にたとえて説明してくださっている。一般に水銀のような有害物質を摂取すれば、毒素で生命を落とす危険性もあるが、この有害物質を特殊な方法で浄化して、毒素を薬用成分として転化した上でそれを活用できれば、水銀も薬用物質として活用できる、ということである。この水銀化合物を含む薬剤はインドのアーユルヴァーダやチベット医学でも伝統的に活用されてきたとされている。
このダライ・ラマ法王の水銀の例は、密教の本質を極めてよく表しているものといってよい。というのも水銀は極めて毒性が強く、無毒化することが大変困難である。同時に水銀は廃棄処分にも大変注意が必要であり、服用する場合には、水銀を正しく精製し加工した水銀化合物を含有する医薬品も、正しい知識を有する医師の指導に基づき、正しい分量で使用すれば、プロテアーゼ阻害薬(抗HIV薬)などとして有益な効果があるが、非常に限定的な使用にのみ限られている取り扱いが極めて困難な物質である。このような理由からも現代の傾向としては、できる限り水銀化合物を使わないような代替物質で薬品を開発する傾向にあり、水銀そのものは厳重に注意した上で取り扱わなければならない。これと同様に痴や貪欲や瞋恚などの三毒の精神的な働きも、自力で無毒化することは極めて困難である。これと同様に密教の煩悩などの転用法を自力で実践することは、極めて困難であり、危険を伴い、同時に望まない副作用も伴っている。
正しい医師の指導に基づかずに、自分勝手に水銀を服用すれば水銀中毒で死亡してしまう。しかし今生で不注意で命を落としてしまっても、僅か一度の人生を棒に振るだけである。しかし正しい金剛阿闍梨の指導を受けることもなく、誤った密教の実践を行えば、何回も地獄に落ちなければならないほど事態は深刻なのである。「煩悩即菩提」という教えや「心性本浄」という教えは、決して何もしなくてもいいといった教えではないし、貪欲転道法といったものも、貪欲を恣にして、欲望と快楽追求への意志を増大させ、悪業を積み放題積み、好き勝手生きましょう、という教えでは決してない。
一般に本尊瑜伽や脈官・滴・風の観想や転移上生法等は仏教以外のインドの宗教のタントリズムにも共通している修行法である。仏教の密教を差別化するものは、空思想にほかならず、空性を修習し、この空性を観想する知の所取相そのものが諸天として顕現することが仏教の本尊の生起なのである。日本にも弘法大師空海が請来なされ、いまも日本でも実践している真言密教もこのような非常に深刻な危険を伴うが即効性のある釈尊が説かれた極めて貴重な仏教のタントラリズムに他ならない。
煩悩に支配されずに、煩悩から生まれた知によって煩悩そのものを止滅させることは、容易ではないが、極めて貴重な教えである。幸いなことに私たち日本人は、この顕密の法脈を受け継いできており、同時に世界の往来はかつてよりは容易にあり、チベットの善知識たちからも更に詳しく学ぶことができる。さらに信仰の自由は保障され、基本的な人権も保障されている国にいま私たちは住んでいる。過去の先人たちが遺してくれたこの貴重な遺産を受け継いで、より煩悩に支配されていない、よりよい人間になり、より幸せになれるだけの十分な環境にあるのである。