木刀の剣を振りかざして勢いよく敵陣へ
斬り込んでいくのは敵が喜ぶだけである
偽物ややちっぽけな思考力で再生の根を
根絶させてやると騒いでも不可解である
どんな人でも死んでいき、私たちは誰ひとりとしてここにこのまま生き延び続けることができるわけではない。すべてを捨ててたったひとりで死んでいき、死んでしまう断末魔の苦しみを味わった後に目が覚めた時には、まったく望んでもいなかった身体に生まれてきて、生まれてくる時の苦痛が激しすぎて、前回の生がどんなだったのかも記憶は完全になくなっている。
生まれた瞬間から煮えたぎる油のなかで茹でられたり、凍え死にたくても凍え死ぬこともできない極寒に全身の皮が凍傷になっていたり、何を食べても何を飲んでも空腹感や渇きが決して癒えない生物に生まれていたりする。または水中でエラを使って呼吸をしなくてはいけなかったりする。生まれ時から巨大な動物に繋がれたり、檻のなかに閉じ込められたり、鞭で打たれながら日々残飯や美味しくもないものを食べさせられ、いつも屈んで歩かなくてはいけない、不自由極まりない生活を余儀なくされることとなる。
運良く人間に生まれてくることができたからといって、決していいことばかりではない。身体に障害がなかったとしても、周囲の環境に恵まれない場合もあるし、どんなに努力しようとも報われないようなことばかりである。こうすれば人生は幸せになれるよ、とか、こうすればあなたは金持ちになれますよ、みたいなまことしやかな宣伝文句ばかりが溢れており、そうは言っても世の中はそんなに嘘つきばかりではないだろうと楽観的に考えて、甘い文句に騙されてしまえば大変なことになる。いやいや所詮人間の世界は、魔物と嘘つきだらけだから、強力な神々に頼んで天国に連れていってもらえたとしても、人間社会と同じような住みにくい上下関係や主従関係からは解放されることもなく。時には神々の戦士として、強靭な軍神たちとの戦いに駆り出されてしまうこともある。阿修羅たちに体は切り刻まれて、何不自由ない楽しい生活も一瞬にして終わりを迎えざるを得ない。あるいは楽しいことがありすぎて、その楽しさに慣れてしまい、それが楽しいということすらも忘れてしまう。神々の天国に生まれてただひとつ分かることは、この楽園にも終焉があるということである。天・人・修羅・畜生・餓鬼・地獄、この六道輪廻のどんな境涯に生まれたとしても本当の意味で心穏やかで楽しいことなどひとつもない。釈尊が苦しみである、と教えておられるのに、その教えにきちんと耳を傾けていなかったからこそ、こんなことだとは何も分からないまま、死んでいき、その死んでいくのは生まれてきたことを原因としている。こんなに実に馬鹿らしい生を生きているのは、生まれてきたからなのである。もうこんなことは勘弁してほしい気持ちになる。
ある日こんなに馬鹿らしい生を過ごさなければならないことに気づき、今生の現世利益ばかり追い求めて生きていても意味がないことに気づいた時、私たちは今生への執着や甘い期待を捨て、さらに来世でどんなところに生まれても輪廻に業と煩悩によって転生している限り、大それたことにならないことに気づいて、絶対的な楽である常楽の境地である解脱の境地を目指して生きることへと方向転換するようになる。しかし解脱を目指して生きるということは、これまで長年間違った考えで、輪廻を生きてきたため、そんなに簡単ではない。長年といっても、これは無始以来の大変長い期間であり、我々とはレベルも才能も違う素晴らしい菩薩たちですら、如来の境地にたどり着くまでには三阿僧祇劫という長い時間がかかると言われている。数日や数ヶ月や数年でこれまで間違った考えで生きてきたことを改善するのは、決して簡単なことではない。解脱を目指す場合にしても、さらに一切衆生を利益できる一切相智の境地を目指していく場合でも、大変困難であり、かつその道程は賢く、着実に、冷静に一歩ずつ進んでいかなくてはならない。私たちは誤った考えにこれまで囚われすぎてきたのであるし、決意を改めたからといってすぐに無明をはじめとする煩悩を根絶することは容易ではないのである。慎重沈着にいまある知性を高めていき、知性の究極の状態である般若波羅蜜を実現していくためには、それなりの計画が必要であるし、その計画が頓挫してしまうのはどんな場合なのかを事前に想定しておく必要があるのであろう。本偈が説いているのは、この知性を発展させる過程で、中途半端なもので満足してしまっては元も子もないということを説いているのである。
本偈の意味は大変わかりやすいものであり、たとえば木刀や竹刀をもって、威勢よく敵陣に斬り込んで突撃したからといって、敵陣はびくともしないだけではなく、逆に敵の軍勢の物笑いの種を提供しているだけになってしまう、というものである。これと同じように解脱を求めて煩悩を根絶させようと思うのならば、正しい無我の見解を心に抱き、それを鍛錬し、その思考力がどんな時にでも継続的に発揮できるように修習しておかなければ、長年慣れ親しんできた我執を根絶することなど不可能である、ということを教えている。偽物の無我の見解では、無明は断じることができないのであり、また一切法の無我を論理的に理解し、それを自らの思想として体現し、自己と自己の延長線上にあるものをその視点で直視しつづける思考力がなければ、自己愛と自己所有物に対する愛着を捨てることなど出来やしないのである。釈尊や龍樹をはじめとする過去の善知識たちが教えてくれる内容をきちんと理解し、それを自分でも思考でき、その思考が継続状態から揺れ動かなくなる強靭な状態になってはじめて私たちは自分たちの最大の敵である、無明・我執との戦いの場に立つことができる。
私たちと無明・我執との戦いはまだ準備をはじめたばかりであるし、いままでは完膚無きまで敗北しつづけてきたのである。しかしこの戦いは鍛錬を怠らず、日々の精進を怠らず、十分な武器と装備を整えて長期戦をも覚悟しておけば、いつか必ず勝利できる戦いである。幸いなことに私たちが本当の勝利者となり、勇者となるために、如来や菩薩たちという最強の援軍が私たちの味方の陣をまもってくれている。多少知恵をつけ、何かを学んだからとはいえ、まだまだ弱小な一兵卒に過ぎないが、真の勇者となれる日は必ずやってくる。しかしながら、いまはまだ、私たちの敵である我執や煩悩は、私たちの内部までも蝕んでいる。だからこそ決して驕り高ぶることもなく、屈強の先輩たちの助言や指摘を素直に聞き入れて、まずは日々の鍛錬を怠らないよう聞思修の本当の智慧を育んでいかなければならないのである。
私たちが振りかざすべきものとは、偽物の木刀ではないのであって、智慧と慈悲で出来ている文殊菩薩の本物の剣なのである。そして、この剣で断ち切るべきものとは、寄る辺ない他人の心では決してないのであって、私たち自身の心を蝕んでいる無明と我欲の連鎖にほかならない。