強い風が幹を揺らすなら
果実は地面に落ちてしまう
躁鬱や散乱で揺れ動いて
禅定は目標を捨ててしまう
どんなに太くしっかりと根を張り巡らせている大きな樹であろうとも、強い風が吹き木の根幹から揺さぶられ続けていると、せっかく何日もかけ、何ヶ月もかけて大切に実らせてきた果実を無惨にも地面へと落としてしまう。これと同じようにあるひとつのことに継続的に取り組んでいても、心が過度に昂揚したり、鬱ぎ込んでしまったり、忙しない状態で揺れ動いている限り、ひとつの目的としている対象に対して心をしっかりと向けている禅定は本来目標として取り組んでいるものを見失ってしまい、その目的をしっかりと心に刻んで維持できなくなってしまう。本偈は惛沈・掉挙・散乱が禅定を維持できなくなってしまうことを、木の幹を強く揺らせば果実を落としてしまうことに例えている。前偈までで布施・戒・忍辱・精進と菩薩行である六波羅蜜の順に記述してきて、本偈と次の偈は禅定波羅蜜を学ぶべきことを説いている。
この六波羅蜜のひとつに数えられる「禅定」(dhyāna)とは、心が善なる対象を志向し続けて持続できている精神状態のことであり、この場合に、心が善なる対象を志向し続けるという限定が付与されていることは極めて重要である。何故ならば、それは善ではない悪しき対象を志向し続けていることや、善でも悪でもない対象を志向し続けていることは禅定ではない、ということを意味しているからである。そのような精神状態は所謂「心所法」のひとつの「三摩地」(専念)ではあるが、「禅定」ではない。心所法のひとつとしての「三摩地」は考えている対象に対して心の集中状態を維持している、というところは同じであるが、対象化して追い求めている目標が善なる目標でなくてもよいのであり、菩薩が学ぶべき「禅定」とは、その目標は必ず善でなければならないという違いがある。
たとえば自己中心的な思考に基づき、物質欲や自己愛を私たちは維持し続けているし、時には他者より優越的な立場に立とうとして、自尊心や嫉妬や欺瞞といった悪しき心に完全に浸ってしまっている状態がある。また殺人計画を入念に練ってみたり強盗計画を入念に練ってみたりしているのは、ひとつの目標に対して心が揺らがないで常に向かっているが、これは禅定ではないし、海や森や水といった善でも悪でもないものに対して心を向かわせている状態も禅定とは言えない。しかるに海辺の静かなところにいって地平線を眺めながらのんびり過ごし、地球の大きさに感嘆していても、これは心が目標として向かっている対象が善でも悪でもないものであるのであるので、禅定ではない。確かに心はある対象に専念している状態となってはいるが、「禅定」と言えるためには、そのような落ち着いた心の上で、更に水平線の向こう側にも多く存在している、この地球上の生きとし生けるもののすべてが幸せになってほしい、苦しまなければいい、という他者を愛する気持ちにならなければならない。これとは逆にどんなに忙しい生活を送り、次から次へと様々な問題があり、カレンダーには分刻みでスケジュールがいっぱいであっても、利他という大きな目標のために、ひとつひとつの事象に心を動揺させることなく、その目標を失わないで、活動している時の精神状態は、真の禅定である、ということができる。
善なる対象を志向し続けることができている禅定は、現世において身体的・精神的な快楽をもたらし、来世以降には、精神的な特殊状態である神通力などの功徳を実現させ、他のすべての衆生を利益するという大きく分けて三つのはたらきをすることができる。身体的・精神的な快楽とは具体的には「軽安」と呼ばれる心と身体の軽やかさを実現するものであり、来世以降に得られる神通力の功徳などはたとえば天眼通などの超人的な視力を得ることができることなどを指している。禅定それ自体が利他を為すことができる、というのは常に他者の幸せを望みその心を見失わないで、あらゆることに動揺せず、変わらない慈愛に満ちた人が、その存在自体が尊く、周囲の他の衆生に対しても、善き影響を与えていることを想像すると分かりやすい。禅定を行じる、禅定の修習とは、このような善なる対象を志向し続けることが可能な精神状態を維持することであり、禅定という菩薩行を実践する、禅定を修習するということは、善なる対象を志向し続けることができる精神状態を途絶えて断絶してしまわないように、自らの心を統御できている状態のことを言う。
この状態が維持できないことは、禅定が崩れてしまうことであり、その原因には、掉挙・惛沈という二つの感情がある。
「掉挙」とは、何か良さそうに見える対象の特徴に心が揺さぶられ、それを繰り返し求めたいという執着心が怒り、心が落ち着かずに、精神の静謐な状態に混乱が起きてしまうことである。所謂躁状態というものとほぼ同じであると考えるとよい。この惛沈は、対象は自分にとって快楽であると思えるようなものを対象としており、いま向かっているこの目標ではなく、そちらの方に向かっていくと楽しそうだ、何かよいことがありそうだと、浮気をしてしまうのである。この浮ついた気持ちは、本来向かうべき目的とする対象に対する継続的な志向を妨げて、それを目標として追いかけ続けることが出来なくさせるものである。掉挙は貪瞋痴という煩悩の三毒の貪欲のひとつであり、自己中心的な欲望や執着によって、善法に対しての志向状態が途切れてしまうことであるので、物質欲や所有欲、名誉欲、権力などの様々なことによって翻弄されている状態であると考えると分かりやすい。
一方で「惛沈」とは、善法に対しての志向状態を維持する過程で、対象に対する志向状態は堅持できているけれども、やる気もでないし、何となく不安で憂鬱で、心は虚脱感で塞ぎ込んでしまっている状態のことを意味する。この惛沈は、貪瞋痴という煩悩の三毒のうちの痴の一部であり、対象を目標として捉える能力は失ってはいないけれども、対象に対して明確に向かっていこうという意志が薄弱になっている状態である。この状態は対象のもつ善き性質を思い出せないようになっていることであり、たとえ仏位や菩薩の無限の利他行を自分は目指そうとするのをやめてはいないけれども、何となく気分が乗らずに、それらを目指すことに虚脱感を感じてしまっているのである。仏典では、この惛沈を克服するためには、観想の対象である、如来の身口意の功徳や、衆生済度ということが、如何に素晴らしい功徳をもつものなのか、ということを明確に記憶に呼び起こし、目的を志向する意識をより明瞭なものとするとよい、と説かれている。惛沈は掉挙に比べて自分がそのような状態に気づきにくく、その状態にならないように慎重に気をつけなければならない。本偈の翻訳ではこの掉挙と惛沈を「躁鬱」と訳しておいた。
また「散乱」とは、対象を志向していても、その対象のさまざまな表面的な要素に心が執われてしまい、対象を一心に志向しつづけることができなくなっている状態のことである。この「散乱」は、貪瞋痴という煩悩の三毒のうちの何れかの一部ではなく、そのすべてになり得るものである。「散乱」と「掉挙」は心が目的以外のものに奪われてしまっているのは同じであるが、「掉挙」が対象としているものは快楽のみであるのでそれは貪欲の一部であるが、「散乱」という気が散っている精神状態の対象は、快楽・不快感・そのいずれでもないものの何れでもよいので、煩悩の三毒の何れにもなり得るという違いがある。「散乱」とただ集中できていないだけのことには明確な違いがあり、散乱はすべて不善であるのに対して、ただ集中できていない精神状態には、善・不善・無記の三種類が有り得る。「散乱」には、また心が知覚・聴覚などの五感に基づく知という心の外側へと向かってしまっているもの、心は内側に向かってはいるももの掉挙や集中力の欠如により、散乱しているもの、惛沈により精神状態に明瞭性を欠いているもの、禅定状態を維持することを嫌悪する気持ち、人に褒められたい、人に貶されたくないなどの世間八風に心が踊らされている状態や、私であるという思いである我執となっているものや、最勝なる仏道や菩薩道があるのに、劣ったものでよいと満足したり、自分はそんな高い境地を目指すことはできなそうなので、もっと簡単なものでいい、と妥協している感情なども散乱のひとつと説かれているものである。
以上は、本偈で述べられている「掉挙」「惛沈」「散乱」「禅定」などの用語を、ジェ・ツォンカパの『菩提道次第略論』で説明されるものから要約したものであるが、これらは『解深密経』『瑜伽師地論』『阿毘達磨集論』などで釈尊や無著が詳しく説かれたものであり、このような「精神衛生学」と呼んでもよい内容は偉大なる先師たちによって詳しく説かれている。「禅」とは何かということを表す言葉に「直指」という表現は極めて有名であるが、善法を志向し続けて、菩提心を修習して最終的にすべての衆生を救済するために、如来の境位を自分たちのこの心に実現することが、「禅定」であり「禅」であり、これが仏教という宗教の核心であることだけは間違いない。如来たちが直接指差して教えてくれているものは、この私たちの心の状態がどうなっているのか、ということにある。
本偈でも、グンタン・リンポチェが私たちに教えてくれるように、どんなに太い木でも強い風が吹けば、大切に育ててきた実を地面に落としてしまう。それと同じように私たちはどんな時でも、どんなに心が揺れようが、すべての衆生のために仏の境地を目指そうとするこの菩提心を大切にし、自らの誤った考えによってこの大切にしてきたものを誤って捨ててしまわないように、世間八風に微動だにせず、強い禅定力、利他心というこの地上に明かりをもたらす、この決して消えない灯明を灯し続けていきたいものである。