因時に精進を棄てないなら
果時に一切の功徳が生じる
根元の水分を欠かさない限り
先端には葉も実も成るだろう
精進とは、他の衆生に対して役にたちたいと思い、その意思を行動・言動・思考を通じて発動して、善資を積むため、あるいは利他行を実践するために積極的な態度を保っている精神状態のことである。しかるに、何か他者を傷つけるようなことや、間違った考えや言動や行動のために努力をしているのは、精進とはいえないものである。精進といえる精神状態は必ず、他者のためにならん、という動機に基づくものであり、他者から何かを奪おうとすることや、自己中心的な欲望の実現のための努力は精進ではないのである。布施・戒・忍辱の三波羅蜜を実現した菩薩たちは、次に精進を極めていく、即ち精進波羅蜜という不屈の菩薩行を究竟していくのである。
精進には、大きく分けて三種類がある。たったひとりの衆生の苦しみを取り除こうとして、ひとつの利他行を行うため、たとえ百千万劫という非常に長い時間がかかろうとも、その途上で地獄に落ちてしまうなどのすぐに結果が出ずに、報われない時間が続くとしても、決して望みを失うことなく、如来の境地を実現するまでの間、その利他行に邁進しつづける行動・言動・思考を継続し続けなければならない。この身口意の善業の動機付けをしている準備段階の感情を「被甲精進」といい、そのような甲冑をつけて、身口意の善業の善業に実際に邁進している時の精神状態を「摂善法精進」といい、その動機である利他行に邁進したいという感情を「饒益有情精進」という。
それではどのようにしてそのような精進を私たちは心に培うのか、といえば、まずはこの精進という精神状態こそが本偈にあるようにすべての功徳の源である、ということを正しく知っておく必要がある。その上で精進に反する意識である「懈怠」と呼ばれる消極的で怠惰な態度をやめ、この怠惰な感情を克服しなくてはならない。
精進の障害となる懈怠という消極的で怠惰な態度には、確かに精進は素晴らしいものであろうし、それによって様々な功徳が生じるだろうが、善業を行うことに従事したくない、と思ってしまうか、あるいは、そんな大それたことは自分には出来ない、と思い畏縮しているかの二種類の懈怠がある。
善業に従事したくない、と思う感情に、いまは他の用事があって暇がなくて忙しいので、善業なんてやっていられないので、後からやろうと先延ばししておこう、と善業を延期したいという思いをもっているか、あるいは善業に反することに対する執着心が強く、いまはそんなことはやってはいられないので、取り急ぎ悪業であるこっちをやっておかなければ、いけないと思っているのかである。
この二つのうちいまは善業に従事してくない、という感情を克服するためには、まずはこのいまの生命には限りがあり、すぐに死んでしまい、死後悪趣に陥ってしまうかもしれない、再び現在のような精進ができる環境を得ることは難しい、ということを繰り返し思い、いまこそが善に邁進し、善を行うべき時であり、いま直ぐにやらなくてはならない、と思わなければならない。しかしながらこの感情を邪魔するものが、早くやらないといけないが、いまはこっちをやっておかなければいけない、と他のことに従事しようとしまう感情である。これを克服するためには、如来や菩薩や善知識たちが教えてくれていることこそが、大いなる歓喜が生じる原因となるものであり、それを行わずにどうでもいい無駄話をして過ごすことや、やらなくてもよいことをし、将来不幸しか起こらないようなことに従事しても無駄な時間を過ごしてしまうだけである、と思わなくてはならない。
このように先送りしたいという気持ちを克服しても、実際に精進に励もうとする場合には、積極的になれなくなってしまう。これは目標である如来の境地など到底実現できやしそうにないし、自分の肉体や骨を他の衆生に物惜しみもせずに食べさせてあげるといった布施の実践は、自分には怖くてできない、と思ってしまうのである。何か悪いことをするためでも、その努力をするのは大変困難であり、利他のための善業を行うのはもっと困難であるので、自分には到底出来やしない、と畏縮して、諦めてしまうのである。
この感情を克服するためには、まずは自分を過小評価しているその考えが誤っている、ということに気づく必要がある。釈尊にしても他の如来にしても、すべての菩薩にしても、いまの我々と全く何一つ変わらない状態から精進をしてその境地に達したのであり、最初から一足飛びに素晴らしい境地を実現した訳でもないし、いまの私たちよりも遥かに劣った能力や恵まれていない環境にいる者たちでも、将来仏になることができる、と教えられている。そう素晴らしい如来や菩薩たちが教えてくれているのに、自分勝手な狭隘な視点でその教えを曲げて、自分にはそんなことは出来ない、と思っていること自体が自己愛に起因する思い上がりなのである、と反省しなくてはならない。さらに善業を行うために、自分自身の肉体や生命を捨てることは大変なことであり、大変な苦痛を伴う、という感情に支配されるのをやめるには、そうした利他の行動・言動・思考法に対する過小評価なのであり、たとえば腐りそうな生野菜を他人に分け与えるのには躊躇しないのと同じように、自分のものであると思っている肉体や生命を他者の役にたつために差し出すこともまた全く苦痛ではない、と思えるようにならなければ、自己所有のものに対する執着を克服することもできないし、我執を断じる無我の見解を得ることなども出来やしない、ということをしっかりと受け止めて理解しておかなくてはならないのである。善業を行うべき時はいまなのであり、それをしたいと思っているのならば、いざそれを行おうとしている時に誤った考えに振り回されていては、善業を行いたいという意思を継続できなくなってしまうのであり、このような消極的な態度こそが「懈怠」、すなわち怠惰で、他者の幸せをもものともしない、他者を傷つける暴力的な感情である、ということを充分に理解し、善業に邁進することを畏縮する感情を克服していかなければならないのである。
精進という積極的な善へ邁進したいという感情を維持するためには、その気持ちを助けてくれる感情を理解しておくとよい。まずは善因善果、悪因悪果という因果応報を常に継続的に考え、業果の法則を正しく理解している精神力がその助けとなる。また何も考えないで無益な時を過ごして、将来はどうでもいいと思うのをやめて、常に注意深く思いを巡らせている、冷静沈着な思考習慣も精進の実践に役立つものである。さらにちょうど子供が何時間でも遊んでいられるのと同じように、精進の精神状態を継続することが楽しいことであり、それは幸せの源泉そのものである、と感じられることも大切なことである。このためには自分によるものであれ、他者によるものであれ、善業が行われていることを喜びであると思う随喜の感情もまた大きく精進を助けてくれるものとなる。
さらに善業に邁進したいと思っても過度にやり過ぎてしまい、疲労困憊して精進という積極的な態度が維持できなくならないように、適度な休息を都度とりながら、継続していくということもまた精進を助けてくれるものである。たとえば何かの善業をやる時でも常に自分の能力や気力以上のことをやろうとすると、次にやろうと思えなくなるのであり、力を出し切らず、ほどよいバランスで精進を継続していく、ということも極めて重要なのである。本偈でも精進を樹木の根に例えて、樹木には水分が必要である、と説いているが、これは根元の部分を水だらけにして、幹すらも水に浸ってしまい、芽を生やすこともできないし、葉をつけることもできないし、果実を実らせることも出来ない程の過剰な水分が必要である、とは説いている訳ではない。料理をつくる時にでも程よい塩梅というのがあるのと同じように、菩薩行の実践のための精進にも、自分にあった程よいペースがある。本尊瑜伽の観想に疲れてしまった時には、真言念誦をするなどして、静かにのんびりと過ごして休息をとる必要があるし、やるべきことを先延ばししたい、自分にはもう無理だという懈怠の感情を引き起こさないために、大体自分ができることの八割程度でひとまずは満足し、次の日や次の機械に繋げる、ということが精進の上手な実践的運用の仕方である、ということは、チベットの僧侶たちが繰り返し教えてくれる大切なアドバイスであろう。
以上が、本偈で樹木の根に必要な水分の譬えで説かれている精進波羅蜜をジェ・ツォンカパの菩提道次第論の記述を要約しながら説明したものである。これらは精進とは如何なることなのか、それはどのようにして心に培っていくことができるのか、ということを教えてくれているものであるが、私たちは残念ながら、この内容をいつも心に記憶している訳ではなく、懈怠そのものばかりを行なって精進のことを忘れてしまっている。デプン・ゴマン学堂の善知識たちは、釈尊がほぼ何も食べないで六年間も苦行を行われたのは、私たちに精進の大切さが如何なるものなのかを教えるためであった、と語ってくれている。精進の実践のうえで最も大切な点は、そのペースは個人差があって当然であるが、それを継続する、ということにある。ひとつのことで一人の衆生の苦しみを取り除くだけでも数劫かかることもあるだろうし、いまだ菩提心をきちんと心に起せていない私たちがこの先三阿僧祇劫かけて一切相智を実現するまでの間は、この先悠久の時間を精進という甲冑を被って過ごさねばならない。決して無理をせず、無駄もせず、そして先延ばしもせず、落胆もせず、適度な程度と適度な頻度を保ちながら努力を続けていくしかない。しかしこの努力の先には、葉も果実も必ず実っていくのである。私たちがここに立ち、素晴らしい果実を実らせるためには、この足元には精進があるかどうかにかかっている。脚下照顧ともいうが、このグンタン・リンポチェの教えを受け止めて、八割程度の力を使いながら、今日も、明日も、これから先、他者のために遠い道のりをのんびりと散策し続けていきたいものである。