2023.04.14
ལེགས་པར་བཤད་པ་ཤིང་གི་བསྟན་བཅོས།

棘が刺さっても動揺しない

グンタン・リンポチェ『樹の教え』を読む・第27回
訳・文:野村正次郎

刺さってしまった棘に反撃して

平手打ちをするのは冗談だろう

加害者に対してさらに憎悪しても

自分を破滅に導くだけなのである

27

樹や植物には棘があるものもある。山歩きをしていれば、棘がある樹に引っかかってしまうこともあるだろうし、偶々うっかり棘がある枝に触れてしまうこともある。そんな時、私たちは刺さった棘を抜くことをまず考えるべきであり、棘が刺さって痛かったからといって、その棘のある樹や草を気に入らないと思い、そもそも棘が存在しているからいけない、と怒り狂い、その棘の樹を平手打ちで反撃し、仕返しをしても、さらに棘が刺さってしまうだけである。だから棘が刺さってしまっている時に、棘が生えているその樹を平手打ちするような行為は、実に馬鹿らしいし、これは冗談にも程がある、と私たちは容易に想像することができる。

これと同じように偶々他者から何か危害を加えられ、不快感を味わうことがあったとしても、私たちはまずはその不快感を取り除かなければならないのであって、不快感を憎悪して、さらに不快感を増大させてしまっても実に馬鹿らしいことをやっているだけなのである。不快感や憎悪を消滅させるためには、その不快感や被害感情に従うことなく、心を冷静で公平な状態を保ったまま、正しいことへの確信を揺るがさない堅固な意思である、「忍辱」と呼ばれる精神状態を自分の心に実現しなくてはならない。

「忍辱」と呼ばれる精神状態の逆の感情として仏教が説いているものは、怒りや嫌悪感、落胆や絶望、正しいことへの確信の喪失である。ここで注意深く理解しておきたいのは、「耐え忍ぶこと」「忍耐」「忍辱」というのは、ただ単に仕返しをするという報復行動に出ない、というだけではない、ということである。「忍辱」とはある精神状態であるので、たとえ行動や言動として表面化させなくても、執念深く加害者に対する恨みの感情をもっていたり、その加害者もまた母なる衆生であるとは思えなくなったりすることも、忍辱に反する精神状態にほかならない。

あの人からこういう仕打ちをうけたので、もう二度とあの人とは会いたくない、あの人からは遠い場所になるべくいたい、と思うのは普通の感情であるのは確かである。しかしながら実は自分に不快感を与えると自分が予想している対象からなるべく離れたい、という感情こそが憎悪の本質であり、「忍辱」を実践しようとする限りにおいて、不快感を与えられた加害者に対して抱く感情は、愛や慈悲以外にその憎悪を解決することができない、というのがこの忍辱についての考え方の最も重要なことである、といえる。自分が何か嫌な思いを受けたその相手を自分から遠ざけようとすることは、単なる自己愛の発動であり、被害者であった自分が加害者になる、その準備を着々と行なっていることである、ということはなかなか気づきづらい。そんな考えは世間一般の常識に反しているという反論も十分予想できるだろう。しかし私たちが追随すべき思考とは、世間一般常識や自己愛に基づく世間の感情に基づいた思考法ではないのであって、如来や菩薩たちのもつ殊勝な視点であるべきだということを決して忘れてはならない。

「忍辱」には三種類の分類があり、他者による被害を何とも思っていない精神状態、自分の不快感を自分で克服している精神状態、正しいことを見失わないで公平で冷静な視点を保ちつづけている精神状態のことを指している。これらが如何なることなのか、という詳しくは菩薩行の六波羅蜜の忍辱波羅蜜とは如何なるものなのか、ということを『入中論』や『入菩薩行論』などにも詳しく記されており、特に出世間の聖者たちは無生法忍などの真実の直視から視点を決して揺るがすことがない、ということなどのより高度な「忍辱」などを身につけている、とされている。

自分自身のものを他者へと贈与する意思を発動させるという「布施」の実践ができるようになり、他者である生物を傷つける、あるいはその可能性がある、行動・言動・思考のすべてから退いて、それらを自ら禁じ自ら律し、その精神状態を維持しつづけようとする倫理的な意志の発動である「戒」の実践ができるようになれば、不快感や被害感情に従うことなく、心を冷静で公平な状態を保ったまま、利他のために行える正しいことへの確信が揺るがない堅固な意思である「忍辱」を実現しなくてはならない。「忍辱」の精神状態を心に実現していれば、そのこと自体で自己の成長のために、菩薩行、すなわち利他行を行なっている、ということになる。

忍辱の教えで重要な点は、報復したいという意思を捨てるだけはなく、自分の心に表面化してきそうになる不快感を克服しようとするための思考法、心が散漫となり自己愛に基づく煩悩に支配されてしまわないようにするための思考法、嘘や偽りや欺瞞や不正をもものともせず、真実を直視し続けることができる思考法、そしてその思考を維持できるための精神力を身につけることが私たちにとっては極めて重要である、ということであろう。私たちは他人が馬鹿らしいことをしていると、ばからしいなと思うのは容易であるが、自分が馬鹿らしいこと、滑稽極まりない、みっともないことをやっている場合にはなかなか気づきにくい。仏法とは自分自身を映す鏡である、ともよく言われているが、静かに冷静になってみれば、私たちはまだ「忍辱」というこの偉大なる菩薩行をきちんと理解してもいなかったし、実践できてもいない、ということが分かる。

破壊的な行動や言動はいうまでもなく、破壊的な感情は、自分自身を破滅へと導くものである、と本偈でグンタン・リンポチェが教えてくれている。

山のなかを歩いていて棘が刺さったからといって怒り狂っても仕方がない。そして煩悩で苦しみ悶えている衆生たちがいるこの世界は棘だらけである。だからこそこの同じ棘だらけの世界に住んでいる他者に対して、気に入らないこと、嫌なこと、納得のいかないことがないことなど決してあり得ない。憎悪に付き従うことなく、常に慈悲の心を失わず、自己の不快感や他者に対する不快感を解消してくれるのはただ「忍辱」という発想の転換だけである。忍辱が菩薩行のひとつとして説かれていることの目的を仏教徒として決して忘れないでいたいものである。それは棘だらけのサボテンに咲く美しい花のようにあらんとすることであろう。

棘だらけのサボテンにも美しい花は咲く

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