高く昇りつめ決定的な善に至ること
そのすべての根は戒律以外に何も無い
擾々とした枝も葉も その果実も
その根源はただ樹幹だけにのみある
これから死んでいく私たちは、死後再び別の肉体をもってこの人身を再現するか、善行を行うことができる神々へと生まれ変わるのかを目指すこと、これを「増上生」というが、この高く昇つめ、悪趣の恐怖から逃れることが、最初の私たちの死後の目標である。自らの死後のことを考えてはじめて、宗教が宗教たり得るのであり、そうではなく今生のこの欺瞞に満ちた世界でうまくやるための現世利益のための教えは、仏教でもないし、ほかの宗教であるとも言えない。
この先に人間や天へと転生することを目指すだけではなく、六道輪廻の苦海を厭離して、この苦海から脱出した解脱の境地を実現すること、あるいはただ解脱するだけではなく、すべての衆生を解脱させることができる存在である仏の境地を目指すこと、これは絶対的に勝れ他たものであり、決定的な善であり、その善は世間の八風で微動だにしないものであり、永遠不変の常楽を自分たちの心につくりだすことである。これを「決定勝」という。
この増上生と決定勝を実現するためのすべての営みの土台にあるもの、それが戒律であり、戒律とは、他者である生物を傷つける、あるいはその可能性がある、行動・言動・思考のすべてから退いて、それらを自ら禁じ自ら律し、その精神状態を維持しつづけようとする倫理的な意志の発動である。如来が私たちに説かれている最初に私たちが身につけるものは、この精神状態なのであり、この精神状態を実現することなく、禅定や智慧の功徳などが私たちに身に付くことは絶対にない。それはちょうど樹の幹にだけ根があるのであり、枝葉や花やふさふさと実る甘い果実などの何処にもそれらを支え、実りをもたらせる、水分や栄養を補給する機能がないのと同じなのでなる。どんなに美しい花が咲いていようとも、どんなに甘い果実が実っていようとも、どんなに美しく複雑な形の枝が生えていようとも、あるいはどんなに薫り高い葉がつくとしても、そのすべての栄養分は、幹の下部にあり、土のなかで他人からは見向きもされることもない地中の樹幹の根の部分にだけその出自がある。
これと同じように戒律をきちんと護ることは仏教の実践の基本にあり、それを護ることもできないで、他の何も実現することはない。戒律を護持できない、ということは、現世利益のためには、多少は、他者を傷つけたり、その可能性がある行動や言動や思考をしてもよい、という自らの妥協であり、それは捨てるべき誤った考えであると知りながら、敢えてその誤った選択肢を選択しようとすることでもある。ちょうど殺人をしてはならない、と知りながら、この人は殺してもよいので、この人を殺しても殺人とは言えないだろう、と自分勝手な都合で勝手に解釈を変更しているのである。このような精神的な妥協をすることは、倫理的な意思の発動に反する営為であり、そのような思い違いをすることは邪見という十不善のひとつであるだけではなく、仏法僧の三宝に帰依する意思に反するものであり、菩提心に反するからこそ、増上生や決定勝を実現することは不可能となってしまう。
戒律を護れば、身体は美しいものとなる、と説かれているのは、これは同時に戒律を護らないことが醜態を晒していることにほかならない、ということである。心は闇に覆われ、煩悶し、暴力的になり、ありとあらゆる煩悩に支配され、混乱と絶望の淵へと陥り、人間の顔をした魔物に成り下がってしまうのである。誰かに見られて褒められるためでもなく、誰にも見られることもなく、他人から評価されることがなくても、すべての功徳の栄養素を自分に取り入れようとし続けること、これが戒律を守り、仏教を実践するということのすべての根幹にある、ということを本偈は教えている。
戒体護持は、生命を賭してでも実践しなければならない、というのは同時に私たちがこの生命を生きる、ということが他者を傷つけないという意思を発動しながら生きなくてはならない、というこの生の使途を教えているものでもあるだろう。私たちの師である釈尊は、私たちに「自らを灯明として、法を灯明として、不放逸であれ。」ということばを遺されている。心のなかを暴力と欺瞞に満ちた漆黒の闇で満たし醜態をさらして生きるのではなく、釈尊が灯してくれた不放逸の灯明を消してしまわぬよう、この生も、次の生も大切に守っていきたいものである。