完熟の実を実らせた輝ける樹は
大地から水を飲み人々は集っている
惜しみなく施しをする輝かしき人
彼がすべての人の望みを叶えている
一切衆生を済度するために、成道の決意をした菩薩たちは、広大なる六波羅蜜と四摂事よりなる菩薩行のなかでも、まずははじめに布施波羅蜜を究竟していなければならない。本偈はこの布施波羅蜜を達成した状態が、すべての生物に過不足なく必要なものを提供できる果実を実らせている如意樹に例え、布施波羅蜜を究竟した菩薩が、如意樹のように他者に対し必要なすべてのものを提供するので、所有物に乏しく貧しい他の衆生がその周りに集う情景を描いている。
布施波羅蜜とは、布施が究極の状態に至っていることであり、布施とは、自己の所有物をすべて他者に贈与したいという意思のことである。布施とは所有権を移転する贈与行為そのもののことではなく、所有権を移転したいという贈与への意思のことである、ということはすでに本サイトにも詳しく考察したの、そちらの記事を参照して頂ければ幸いであるが(リンク)、ここでは本偈で描かれている情景について少しだけ想像を膨らませて考えてみよう。
神々の地上に生えている如意樹というのは、常にすべての衆生に必要な物質的なものを提供している。その実はすべて完熟の状態であり、どれひとつとして、未熟の果実はない。これは実際にその実を手にした時に、希望に沿わないようなものがない、ということである。また前の偈にもあったように、その完熟の実はいくら収穫しても無制限に実っていくものであり、無尽蔵の状態である。この如意樹はただ樹であるというその名前のように、大地から足で水を飲んでいるだけで、しっかりと大地に生えている。足で水を飲むもの、というのは樹木の別名であるが、ただそれだけのシンプルな佇まいにも関わらず、無限の衆生たちに必要な無限の完熟の果実を提供するので、その樹木の下には自然にすべての生物が集ってきて、この地上の楽園で輝く大きな柱である如意樹の下で、静謐に、そして欲望や羨望や悪意すら忘れてしまったような穏やかな表情で、快適に過ごしている。
布施波羅蜜を完成させているたったひとりの出世間の菩薩たちもこれと同じである。彼らは諸法無我の真実を現観しており、煩悩を断つということが如何なることなのか、ということを自ら体現してその佇まいで表している。そんな菩薩たちは自分たちが自ら何かを所有して、手放したくないという贈与意思を翻意することは決してない。
これが私である、これが私のものである、という我執と我所執を退けているので、たとえ盗賊がやってこようとも、詐欺師がやってこようとも、あるいはどんなに名声高き人々や地位の高き人々がやってこようとも、すべての衆生に対して等しく、贈与の意思を発動している。この衆生には与えるが、この衆生には与えたくない、といった区別をすることはなく、その区別をせずにすべてのものに同じように接し、同じようなものを都度与えていくので、そのような菩薩の側に控えようとする人々は、欲望や羨望や悪意すら忘れてしまい、静かに充足して過ごすことができている。
彼らの中心で輝いている菩薩の心にある無縁の大悲心は、すべての菩提心の根本原因であり、そこから菩薩は生まれ、その菩薩から如来たちが誕生する。その如来の説法に基づいて声聞・独覚が誕生し、愛欲や物質欲の連鎖から生み出される私たちの世間とは異なり、出世間の善なる人間の聖なる連鎖をつくりだしている。そんな聖なる連鎖の中心軸となっているのが布施波羅蜜を究竟している菩薩たちなのであり、この布施波羅蜜を究竟した菩薩は、私たちにとっては来世に悪趣へと陥らないため、この輪廻から解脱をするため、そして一切衆生の済度のために菩提心を起こして如来となるその日まで私たちの心の歩みを助けてくれ、進むべき道を示してくれる存在であるので、たったひとりでも「僧宝」と呼んで仰ぐことができる存在なのである。そしてこのような菩薩たちは、何処か遠い国に住んでいる訳ではなく、如来たちがひとつの原子にも無限の化身を示現しているのと同じように、私たちの周りに常に寄り添い、常に私たちが気づかないうちに様々な形で私たちの善意の実現のために手助けをしてくれている。だからこそ、仏教論理学ではじめに子供たちは、自分たちの愚かな物差しで他人を人間として断罪してはならないのであり、道端ですれ違う者、窓際にやってくる小鳥たちでさえも、自分たちの修行を手助けしてくれる菩薩たちかも知れない、ということを学ぶのである。
神々の大地に生えている如意樹であれば、決して私たちに身近な存在ではない。しかしながら、その神々の大地に生えている如意樹のような菩薩たちは、私たちの周囲のどこにでも存在している。ただ私たちがその存在に気づかないだけ、その存在を感じる能力を持ち合わせていないだけなのである。その存在を感じ、その佇まいに明るい未来の善なる連鎖を感じ取る力は、私たち自身が育てていかなければならない知性である。そしてその知性を育むための第一歩は、まずは私たちが接する、あの衆生もこの衆生も、そのような菩薩かも知れない、と自らの狭隘なる判断力を疑うことからはじまるのであろう。そのような菩薩たちは私たちの望んでいる希望を叶えてくれる存在である。
本偈でグンタン・リンポチェが教えてくれているのは、私たちの周囲の人々が、如意樹のようにすべての人々が集い、語り合い、自分たち自身を成長させてくれる菩薩かも知れない、というこの普段は気づかない何気ない、日常の情景の輝かしい一面であると思われる。