優曇華の種も別の種から生える
それ故に始まりもないのであり
終わることもまたないのである
両親でない者など誰がいようか
如来がこの地上に出現する時や、この世界のすべての支配する転輪聖王がこの地上に出現する時にだけ美しい花を咲かせる優曇華は、如来が涅槃寂静を象徴する拈華微笑の花である。その花もまた種子から生えてきたものであり、その種子もまたいま咲いている花とは異なる別の花の種子から生えてきたものである。
数時間寝て過ごしていて朝になって目を覚ました私たちもまた、昨日の肉体と精神をもって起きてきたのであり、この肉体もまた両親から生まれてきたものであるのと同様に、いまの私たちのこの心もまたいまとは違う他の心から継続して生まれてきたものである。いま覚醒しているこの心はある時、いまのこの身体とは別れを告げ、身体はそのまま埋葬される場合もあるだろうが、火葬されて灰になっていくだろうが、この精神はちょうど毎日私たちが眠るように死を迎え、そしてまた別の身体をとって別の人格として再生していく。人間に転生する場合もあるが、他の生物に転生することもある。
優曇華の花や私たちの心を誰か全知全能の絶対神が創造してくれない限り、無から有が忽然として誕生することはない。何らかの現象が起こっている時には、いまのこの現象より以前に、その原因となるものが必ず存在しており、いまのこの現象もまたこれから将来において起こってくる別の現象の原因となる。何時何処へとやってきたのか、ということは前世を遡っていけば、そのはじまりであった時というものを見出すことはできないし、今後いつどこへどんな風にここから去っていくのか、ということも、いまの生が終わる時以降の、次の生、その次の生と考えていくとこの輪廻からの解脱の時以外には終わりというものを見いだせないし、たとえ解脱や仏の境地を実現したとしても、阿羅漢や如来として過ごしていることだけは確かなのであり、私たちの過ごす時間にははじまりもなく、そして本当の終わりもないのである。これが輪廻は無始以来継続している、ということであり、精神は今後も無限に継続できるからこそ、この精神もまた無限に発展できるのである。
数千年に一度しか花を咲かせない優曇華があるように、私たちも数千年、何万年に一度しか出会えない如来の説いた仏法にいま出逢えることができている。しかしこの優曇華が数千年に一度見ることが出来ない、如来の法に出逢えることが出来ない、と思っているのは、ちょうど今日出逢うことができる様々な人、様々な生物に関心をもたず、やり過ごしているからであるのと同じである。無限の過去から遡って考えるのならば、その過去が無限であるからこそ、私たちはこれまでも何度も優曇華の花を目撃し、如来の教法にも出逢うことができて、今日出会い、道ですれ違うあの人も、その人も、そして空を飛び回っている鳥であれ、生きたまままな板の上で処刑される魚たちも、その全員が私たちのかつての両親であり、兄弟であり、姉妹であったのである。その全員が今日もまた幸せを求めて活動し、苦しみを避けようとして踠いている。私たちと彼らには何か違うところがある訳ではない。さまざまな悩みを抱え、さまざまな責任を負い、他人のやさしさを感謝し、他人のささやかなやさしさを記憶に刻もうとし、分断や別れを望まないで暮らしている。論理的に考えるとしても、感情的に感じようとしても、この私たちの周りにいてくれる、すべての生きとしいけるものたちが、いまは偶々別の姿をしているかもしれないが、私たちの愛しい家族であることをふと考えると気づくだろう。
一切衆生が自分の母である、と知ることは菩提心を起こすための第一歩であり、菩提心は大乗仏教の核心である。愛しい家族を愛おしく思い、愛おしく思う人たちのために、何かできることをしたい、と思うことは、人間がもっている基本的価値である。狭隘な料簡を捨て、すこしでも他者に役立とうとして今日という日を生き、今日という日に出会う人に接しようと思い続けることは、私たちの自生の豊かさと幸福の源泉にほかならない。
本偈は、この私たちのもっている基本的な価値を思い起こし、無始以来を振り返り、この先の無限の未来へと歩きだすために、まずはすべての衆生が無関係な他者ではなく、私たちに愛しく恩深い存在であることを思い出すためには、まずは優曇華の種子にも種子があることを長い時間を遡って考えて、数年や数十年ではなく、何千年というタイムスパンのなかで、自分たちがいまどこにいるのか、ということを考えることの大切さを教えてくれている。
本日はチベット暦の正月・神変月の十二日である。かつて釈尊は舎衛城にて一切衆生を等しく愛おしみ、何とか幸せになってほしいという大慈の禅定へと入られ、その禅定から金色の光明が放たれて、一切衆生の心に慈しみの心が芽生える、という奇跡を起こされた日である。釈尊の教えに触れたことのある二千年後の私たちもまた、今日という日はすこしだけいつもより他の衆生に対してやさしい大慈の心で接することができるといい。そしてこの私たちの今日の心境の変化は、必ずや優曇華の花を咲かせるものとなるだろう。