2023.03.03
ལེགས་པར་བཤད་པ་ཤིང་གི་བསྟན་བཅོས།

解脱や一切智の邸宅を建てるのは決して簡単なことではない

グンタン・リンポチェ『樹の教え』を読む・第21回
訳・文:野村正次郎

柱・梁・桁・棰と組み合わることで

緑廊は快適なものに仕上がってゆく

殊勝な三学処を合わせて修めるなら

解脱という殊勝な邸宅は竣工できる

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きちんと出来上がっていない家には私たちは住めない。快適な暮らしをするためには、きちんと材料が過不足なく揃っていなければならないし、粗末な材料でも適切に組み合わせていけば、質素だが快適な暮らしが堅固な家をつくることができる。これとは逆にどんなに高価で立派な材料があったしても、家を作り上げるための一部の材料が不足している場合や、材料を倉庫に放置していて施工をはじめないで放ったらかしになっている場合には、快適な家がいつできるのやら分からないことになる。

逆に、いい加減な材料で、いい加減な工事で安価に焦って家を建てた場合を考えてみよう。私たちは簡単に物事が進むことを好んでいるし、経費もできるだけ安い方がいいという考えを持っている。しかしそんな家にいざ引っ越せば、雨が降ればすぐにでも漏水がはじまるだろうし、雨漏りで天井が腐ってしまい、寝ている時に天井が落ちてきて天板で怪我をし、家に住むのではなく、病院に何日も入院しなくてはならなくなったりする。多少住めたとしても、一部の材料が欠けていたり、一部の建て付けが悪かったりすれば、台風が来ると家が崩れてきたり、水回りの問題があって家が水浸しになってしまったりする。これと同じ何か目的があって、その目的を叶えようその実現を求めている限り、その目的を実現するためのすべての部品を正しい方法で組み立てなければならないのである。

このことは仏教を実践して仏の境地を実現し、自分たちも衆生のために何か役立つことをしたいと思う場合も同じことである。仏教を実践して解脱や仏の境地を実現するためには、まずは正しく過不足なくその材料となるものを集め、それを正しく組み立てていく必要がある。浅はかな自分勝手な考えで、私はこの材料、この教義が好きだけど、この材料、この教義はあまり必要ないと思うので、それは不要である、というような身勝手をしているようでは、輪廻から解脱できることもないし、声聞・独覚ですら可能である解脱の実現ができたとしても、無数の衆生を利益できる一切相智という仏の境位を実現することなど所詮無理な希望であるということになる。

無我を直視する道諦をきちんと修得することにではじめて、煩悩と業を断じた滅諦という解脱の境位を実現することができる。この道諦の修得のためには、無我の事実を認めない仏教以外の宗教の実践者よりもはるかに勝れた戒・定・慧の三学処を過不足なく修得している必要がある。

たとえば苦行をすることで自分の身を痛めつければ、悪業は浄化できるといった誤った考えに基づいて、針で自分の体を痛めつけて悪業を浄化しようとするといった誤った苦行などを実践すべきではない。あるいは特定の生物は宗教的な儀式において生贄として殺していいという誤った考えを持つことで、生贄のために生物を殺し、不殺生を実践しないことを正当化すべきではない。これと同じようにどんな不法行為や非法行為を行なっている者であろうとも、死に処すべきことは致し方がないと思ってもいけないし、酷い悪行を繰り返している者を見聞きして、その者は酷い悪行をしている、と誹謗中傷してはならない。やってはいけないことをやっているのは、圧倒的多数の衆生の現状なのであり、仏教徒である限り、そのような道を踏み外しているのは、私たち自身もまたそうであると反省し、他者の悪行を契機により一層自分たちの行動・言動・思考を見直さなければならないのである。どんなに圧倒的な多数の集団が非法行為を行っていようとも、私たちはそのような状況だからこそより一層慈悲心を強固なものとし、正しい方向へと社会が向かうように個人として努力していかなければならないのである。これが戒学処の基本であり、自ら悪行を控えて律しよう、という気持ちこそが戒の本体であり、この気持ちを身につけることなく、ほかの定学処や慧学処が身に付くことはない。

戒学処とは煩悩に対する批判的態度をとっている精神状態であり、私たちの心の外部にあるものでもないし、社会的なものではない。たとえば、他の衆生を殺さないということ自体は戒律ではなく、他の衆生を殺すのは仏教ではよくない社会的行為であるので禁じられている、というのも戒律ではない。どんな生き物であろうとも殺すのはよくないので、殺さないようにしよう、という固い決意こそが戒律なのであり、行動・言動・精神状態を自制し、煩悩に振り回される機会をなるべく減らしたいと思っていることこそが戒学処である。

しかしながら、私たちの心にはさまざまな形で煩悩が起こってきて、それが表面化していくこともある。この時に実際に起こっている煩悩を抑制するものが、定学処である。たとえば牙で自分たちを殺そうとした猛獣がやってきた時に、自分にこの生物は危害を与えるので、ナイフで殺してやろうと思ってしまい、殺生はよくない、という絶対的な倫理を忘れ、どんな生き物であろうとも殺さないように努力しようという精神状態を継続できなくなってしまう。本来は正しい命題を知っているはずなのに妥協せざるを得なくなった状況に陥った時、何とか創意工夫して善なる意志を貫こうとしなければならない。この時に強靭な特定の善なる意志の継続状態である定学処への習熟度が問われることとなる。

さらにまた、表面化した煩悩を抑制するだけでは不十分であり、無際限に煩悩が生起してしまい、それを根源から断じる必要がでる。この煩悩の原因となる無明を断じるものが慧学処ということになる。しかるに戒学処によってまずは精神の態度を決定し、定学処によってその精神状態を継続させ、慧学処によって最終的な目的である煩悩を断じて解脱の境位を実現する、というこのプロセスから、苦諦を断じた滅諦を実現するためには、必ず無我を直観して我執を退けることができる知たる道諦が必要であり、仏説を聴聞し、その意味を考えて、繰り返しその内容を継続して理解できている知たる慧学処を自分の心に養っていなければならないのである。

解脱や仏の境地を実現するために私たちが身につけるべきものは、この殊勝なる三学処である。これを身につけることなくして、解脱の境位を実現できることはないし、一切衆生を利益できるよういなることもない。本偈ではこの解脱を実現する過程を、建築物をつくりあげるときに、ひとつひとつのものを丁寧にきちんと無事に竣工していかなくてはならない過程へと喩えている。

利休は「家居は漏らぬように、食事は飢えぬように」と教えているが、この輪廻からの解脱した私たちの引越し先は、私たちの心のなかにもまだ出来ていないのであり、いまはまだ必要な材料を集めていくように、その準備に勤しんでいる段階なのである。この準備段階で、もう材料を集めるのに飽きてしまったので、その過程をすっ飛ばして、できるだけ短期間に簡単に解脱や仏の境地にたどり着けることばかりを考えるべきではない、ということをグンタン・リンポチェは戒めている。

安普請で崩れそうなインドの家
デプン大僧院で学寮を建設していくための基礎工事。僧侶たちの学寮は解脱と一切智の邸宅を建設するための人々の仮住まいである。

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