栄華を極めようとこの輪廻では
報われることもなく核心もない
芭蕉の茎が露でいくら輝くとも
先から端まで何処にも芯はない
私たちがいま如何なる時を生きており、何処にいて、これからどのようにしたらいいのか、ということは私たちの最大の関心事である。ある地域やある家族に人間として生まれてきて、これからこの人生をどのように過ごしたらいいのか、そしてどのように死んでいくべきなのか、この生の終わるその時まで、どのように過ごしたらいいのか、ということに人は悩み、人は苦しみ、そしてそのなかに幸せや生きがいを見出していくのは、人間としての当然の希求である。
あの場所に、あの家族のなかに生まれてきて、さまざまな出会いがあり、さまざまな生の場面を潜り抜けながらこうして生きてきた、という自覚は、ふと振り返って考えると記憶の濃淡はあるにしても、こうして生きてきたというある程度の自己の生き様というのを考えることは容易である。しかしながら、これからどうあるべきなのか、どうあろうとして、どうできるのか、このことを考えると私たちはほぼ全員当方に暮れてしまう。これから私たちに起こる最大の出来事は死でしかなく、いま生きてここに刻んできた記憶に新しいこのすべてのことは、今世ですべて別れを告げなければならない。ほかの人の様々な生き方を外側から眺めてみても、それは私たち自身の生ではなく、すべて他人の生にしか過ぎない。いつも死んでいくのは自分ではなく他人ばかりであり、自分が死んでゆく時に、他人にどう思われつつ死んでいくのかということを考える余裕がある人もいるかもしれないが、自分が死んでいく時に、他人のことなど考えてもいられない、という人の方が殆どであろう。
仏教に少しでも触れたことがあるのならば、私たちは無限の過去世という遥か遠い過去からここにいまやってきて、そして無限の未来世へと心に刻む微かな記憶だけを頼りとしてこれから生きていかなければならないということを知るだろう。釈尊はまずはこの私たちの心と身体そのものが、苦しみであるという事実を知らなければならない、と説かれている。この心と身体そのものが苦しみであるのは、この心と身体をもたらしたものが煩悩と業によるものであるということに起因する。たまたまいまは人間として生まれてきることができて、この先や地獄や餓鬼や畜生道へと転生することがなかったとしても、再びいまと同じような善趣と呼ばれる、人間や神々の身体をもって生まれてきたとしても大してことではない。何故ならば、通常私たちが苦しみであるとは考えていない、中立的なものとして感覚的に認識しているこの心と身体、すなわち有漏の取蘊は苦しみでしかないからである。
死後の自分たちにはもってはいけないほどの物質を所有していても仕方がないし、たとえある特定のコミュニティで自分の名前に華やかな形容詞がついていても、私たちは幸せな未来を実現できるわけではない。現世利益のためのすべての活動は、この生が終わる時に私たちの記憶からすべて失われてゆくのであり、たとえ来世にまた人間や神々の身体をもって生まれてきたとしても、あの時あんな立派なことを果たした私と新しい私とは無関係な他者としてしか他の人には認識してもらえない。誰かの記憶に生きている時と同じように自分の存在が記憶されるのは、せいぜい数十年、数百年に過ぎないのであり、残念ながら次に生まれてきた時には、ちょうどいまと同じように前世で何をしていたのかの記憶は自分にもないのと同じように、他人にも新しい私は、過去のあの時の私と同一人物の継続であるということを思い起こしてもらえる訳ではないのである。
今生よりもよりよい生を目指して、死後は神々やもっといい人間になってもっと楽しく過ごしたいということを目指して有漏の善業を動機としてどんなに生きても、それはそんなに期待するほどのことにはならない、ということを本偈は教えている。
自己愛や煩悩に駆られた有漏の善業を動機として行う活動がもたらす報いはあくまでも有漏の善果に過ぎないものである。有漏の善果である楽受は、あくまでも相対的な楽であり、それは苦の軽減に比例して感じるものであり、その本質は変化することにあるので、実情としては「壊苦」に過ぎないものである。華々しい神々の身体をもって生まれてきても、再びいつか悪趣へと堕ちて死んでいかなければならないのであり、失われるものが多ければ多いほど、私たちは逃げてゆく幸せを失うことは耐え難い苦しみを感じざるを得ないのである。生老病死の四苦も、求不得苦や怨憎会苦や愛別離苦や五蘊盛苦を合わせた八苦も有頂天から無間地獄にいたるまで三界輪廻ではこの耐え難いこの苦しみを同じように味わわなければならないのであり、その苦しみから解放された解脱の境地を得るまでは、現世利益のための努力もよりよい生を得るための努力も実に虚しいものに過ぎないのである。
本偈では、このような三界輪廻に業と煩悩で転生しつづけることは、芭蕉の幹のようにどこにも芯がなく確固としたものは何もない、ということを説いている。芭蕉やバナナは多年草であり、木ではないので芯があり幹となる部分がどこにもない。バナナや芭蕉というものはあくまでも草であるので、実をつければ茎は枯れてしまい、それで終わりであり、樹木のように年輪を重ねながら育っていき、毎年実をつけることが全くできない植物である。外側からみたらバナナは3メートルほどの高さのものもあるが、幹にあたる部分はなく、ちょうどネギと同じように葉が重なりあっているだけであり、立派な樹のように見えるが、中身がない、なんとも情けない状態なのである。本偈では輪廻に生きていることをこれと同じようにちょうど露がつくなどして、きらきらと光を放ち華やかに見えることもあるかもしれないが、中身のないものであるということを表現している。そのような芯のない現世と来世への期待を捨て、輪廻を厭離しそこからの解脱を目指して生きるべきことこそが、我々が自分たちのこの生を芯のあるものへと変える唯一の方法である、ということを本偈では説いている。
人間として地位や名声や財産を築くことは人生の目的ではない。それと同様に人間ではなく享楽的な神々の身体を得て、地位や名声や財産や快楽に耽って暮らす来世を目指して生きることもこの人生の目的ではない。この人生でこれから生きるための目標はそのような直ぐに枯れてしまう芯のないものを目指すことなのではないのであって、しっかりと年輪を重ねるように少しずつでも芯のある樹木が育っていくように解脱という大木への道を歩みはじめることにある、ということを本偈は教えている。