はじまりもなく積んできた業は
百劫経ったとしても消滅しない
何千年も乾いていた多羅の実も
水気があるのならば芽を生やす
私たちは毎日さまざまに動いている。何かの動きをするために意志ははたらき、思惑通りにならないとしても、何かその動きの結果を追い求めて生きている。他者に好意的な結果をもたらすために行動に移すと他者にその結果をもたらすことができ、逆に他者を不幸にするために何か悪しき動きをはじめれば、その結果として他者は傷つき不幸を実現することができる。動いている私たちは、その動きに常にさまざまな思惑や感情をもっており、その思いを遂げることができるまで、動きを止めない。寝ている時も起きている時も、道を歩く時も、ただぼんやりと空を見つめている時でさえ、私たちの心はゆれ動き、そしてそれに基づいて私たちはゆれ動いている。こんな意志をもち動いている者を仏教では「有情」と呼び「動いている世間」と呼んでいる。
こんな風に動きはじめたのには始まりがない。私たちの生と活動は同義であり、ここでいまこうして動いてきたより前の生でも、何らかの意思をもち、何らかの動きをしてきた。木工細工の人形は自由意志で動かないが、私たちは自分の自由意志で動くことができてきた。この私たちのすべての活動を仏教では「業」と呼びその本体はすべての活動の動力源となる動機である私たちの思いである。
ある動きを繰返しすれば、その動きは習性化し、特に意識しなくてもそれができるようになる。鳥たちは飛び方を忘れないし、小さな虫もごそごそと本能的に動いている。動きたいという意志はあっても、この肉体がその意志通り動かなくなることを「老」や「死」と呼び、この動く媒体が使えなくなった時、本能的に動いてきた私たちの心はまた動きをするための身体を欲して転生する。
私たちがいま味わっているこのすべてのことは、他人ではない自分たちが過去に為してきた活動履歴の結果であり、自分の為している活動の結果を享受しなければならないのは自分たち自身であり、他者の好意や恩恵を受けるというのも、自分たちの活動履歴の結果に得ていることに過ぎない。このことを仏教では「自業自得」と呼び、私たちの活動の主体は、他の誰でもない私たち自身でしかないということを教えている。他人に強要され、風まかせに放浪し、川の流れに身を任せていたとしても、これはあくまでも自分たちの意志によるものであり、決して他人の仕業ではないのである。何故ならば、私たちの活動履歴は他人の活動履歴ではないからである。
また私たちが行ってきた活動の履歴は、私たちの心に消去不可能な記憶として刻まれていくものである。時間を遡って、過去に誤って行ってしまった出来事を帳消しにはできないし、同様に過去にうまく成功したからといて、同じことをやろうとしても必ずしも過去の再現ができるではない。いま現在行っている何らかの活動がすぐに成果を出す場合もあるが、長期間の時間が経った後に、結果が出る場合もある。本偈はこのことを何千年も芽を生やしていない多羅の実が条件さえ整えば、椰子の樹の芽を生やすことと同じであると述べている。
多羅(tala)とはヤシ科の扇椰子(Borassus flabellifer)のことであり、インドではその葉は「貝多羅葉」(ばいたらよう)古来その葉を貝葉として仏典を記述するために使用してきた植物である。所謂「貝葉」(ばいよう)と呼ばれる写本群は、このタラの葉に書写された写本のことを表している。
私たちが無限の過去からやってきた過去の活動履歴には無限の悪事の記録が刻まれている。何万回も前の生で人殺しをしたりしたことが原因となり、突然無差別殺人犯に殺傷される可能性がない衆生など何処にも存在していない。あらゆる不幸や悲劇の原因という危険を心に抱えながら私たちは常に生きている。しかしこれから先、いままで不幸や悲劇の原因がもたらす被害を最低範囲でとどめるための努力をいま私たちはすることができる。果を結ばないようにする努力は現在可能である。
これから先の未来はこれまでの長い自分たちの過去よりもよいものであるべきであろう。できれば三阿僧祇劫の後には一切衆生を苦しみから解き放つことができる仏の境地を実現し、その後は如来としてこの迷い苦しみ悶えているすべての衆生たちをひとりでも多く苦しみの激流から救い出すことができるようになることを目指すべきであろう。
そのために行う業は、明日、あるいは来年から行わなければいけないものではない、今日という日、今朝という時間、今日の午後という時間、いまから5分後、十分後、一時間後というすべての未来の時を利他行や善業の時間へと変えることがいま私たちにできる。崇高な目標を達成するためのすべての動きはいま私たちにできることである。そしてそれは私たちがそのような動きをしたいと思うかどうかにかかっているのである。これから他者に役立ついいことをしようとして、そのために何らかの動きをしたことは決して無駄にはならない。その逆に他者の意思を踏み躙るような何か悪いことをしたことも自然消滅することはない。すべての衆生が善業の結果である幸福を望んでいる限り、私たちはその原因となる善業をいまそしてこれからすべきである。その決意は、私たちが為した業が決して無駄になって消滅することがない、というこの業果の法則への確信が固めてくれるだろう。いま、そしてこれからをつくるのは私たち次第なのである。