芽が毒か薬なのかに対応しない
果実を結ぶものなどは何も無い
業もまた善不善に対応してない
別の果が起きるのはあり得ない
自分たちが幸せになりたい、いま住んでいる自分の周りの人がもっと好ましい人間であってほしい、いまのこの社会や周りの環境がもっとよくなって欲しい、そう望む限り、私たちは他の生物が好ましいと思う何か役に立つことをするか、他の生物が苦しむようなことをしないようにするか、それ以外に方法はない。自分たちの幸せの大部分は、自分を中心した周りのものがもたらせてくれるものであり、自分でどうにかできること以外は、他人によってもたらされるものである。他人を自分の思い通りに操ろうとし、自分の思う通りの人柄や活動を期待するのは、実に甘い考えであり、自分を含めて世の中など、そんなに簡単に思い通りのものに変わることなど決してないのである。
小さな木の芽が毒性をもっている場合には、その果実にも毒性がある。反対に薬効がある場合には、その果実にも薬効がある。猛毒性をもつ芽が万能薬の実を結ぶこともないし、薫り高い薬効のある芽から猛毒の実が生えてくることはない。種から芽、芽から茎、茎から花や葉、そして実へと草花や樹々はさまざまな姿を私たちに見せてくれてはいるが、それらが与えてくれる私たちへの効能は、常に変わることなく、同じ特性をもちながら植物は姿を変えている。
私たち人間の行動や言動や考え方も同じである。自分たちだけが快楽を享受しようとして、他者を犠牲にし、傷つけている場合には、それは悪業である。自分の幸せは他者によってもたらされることを思い、他者の幸せを願い、他者の苦しみを望まないように行動し、言動し、他者をないがしろにせず、自分よりも大切な幸せの源であると思いながら、行動し、言動し、静かに他者へと思いを寄せている場合には、それは善業である。悪業と呼ばれるような行動や言動や思考をもっている場合には、不幸しか作り出すことができない。逆に善業と呼ばれる行動や言動や思考は、幸せだけを作り出す。
あの人のために一生懸命役にたつようなこんなことをしたけど、結果的には不幸しか作り出せず失敗に終わった。あの人を陥れるためにこんなことをしたけど思いのほか彼らはまったく苦しまず幸せになった。そんな風に因果応報の原則を逸脱して考えてしまう人も多い。しかしよくよく考えてみれば、その善業は見返りをもとめてただ善意を押し付けただけのものではなかっただろうか。心の底から相手を傷つけることにすこしの躊躇いも感じなかったのだろうか。その結果は私たちひとりだけの行動や言動や思考によってもたらされたものだろうか。私たちの善意や悪意に反して、他者を助けようとする善意や貶めようした悪意が働いていなかっただろうか。ものごとを冷静に分析し、自分自身の判断だけを正しいと思うのをやめるのならば、私たちは善が楽を生み出すものであり、悪が苦を生み出すというこの因果応報の原則から逸脱するものが何もない、ということが分かるだろう。
私たちは悪業を為すことには慣れているが、善業を為すことには慣れていない。私利私欲のために行動し、言動し、思考している場合には、実は他者のことを心の底から気にもしていない場合の方が多いのである。偽りは疑いを増大させ、他者を騙して自分の利益を得ようとしても続かない。私たちの生命や幸福はかけがえのない価値があるのと同じように、ほかのすべての人たちも、生物も、その生命や幸福はかけがえのない価値がある。幸いなことに私たちは植物のように枯れて朽ちて死ぬまでひとつの性格だけで生きているわけではない。私たち人間は自分の心を自分で変えることができ、毒性のある人物であっても、善良なる人間になることができる。もちろん簡単なことではないが、心を落ち着けて静かに自分と植物と比較すれば、これからどう成長すべきかが見えてくるのだろう。