2022.09.25
ལེགས་པར་བཤད་པ་ཤིང་གི་བསྟན་བཅོས།

三宝に帰依する正しい仏教徒が心がけること

グンタン・リンポチェ『樹の教え』を読む・第14回
訳・文:野村正次郎

根の腐った木に寄りかかるのは

愚ろかであることの証拠である

自ら輪廻に沈んでいく者たちに

帰依して何と迷ってしまうとは

14

解脱と一切相智を求める仏教徒が帰依すべき対象は、仏法僧の三宝だけであって、それ以外の対象を帰依の対象としてすべきではない。梵天や自在天といった世間の神々、人間の権力者や権威のある者、亡霊や餓鬼や動物など実態もよく分からない生物たち、これらは私たち仏教徒が頼るべき存在ではなく、彼らとの関わりのなかに救いと繋がるようなことは何一つない。これは根が腐った木に寄りかかると倒れて負傷してしまうのと同じであり、輪廻に沈んでいっている世間の者たちを救いとすることは、自ら苦しみを増大させているのと同じなのである。

根が腐っている木のように世間の者たちは無我の真実を現観していないので、煩悩の根本原因である無明を何一つ克服していない。そんな者たちに、現世のことはもちろんのこと、死後のこと、輪廻からの解脱のこと、衆生済度のための菩薩行の完成のことを求めて救いすべきではないし、それらの者に何か依存心をもつことは、正しく三宝の功徳と区別を知り、そこに解脱と仏位を実現するための基盤としての救いを求める知性の障害にほかならない。

また仏宝に帰依する限り、如来の姿が絵に描かれたものや鋳造されているものを物質的に見て、その良し悪しを語ってはならない。何故ならば、私たちはいま説法をしてくれている如来たちに直接お目にかかることはできなくても、そうした仏画や仏像に出会うことができるのは、如来たちの導きによるものであり、その仏像や仏画を拝見することがある場合には、それらが私たちに説法をしていると考えなければならないからである。

また法宝に帰依する限り、正法を表現する四句以上のことばの文字列が記されているのを見た時に、それを地面においたりまたいだりしてはならないし、仏典を売買したり、経本の物理的な良し悪しを批評してはならない。何故ならば、それは私たちを輪廻や悪趣の苦しみから救済する帰依処そのものである、と考えなければならないからである。その文字列は私たちに如来の代わりに如来の正法の梵音を聞かせてくれる存在と考えなければいけないからである。仏教に多少知識をもち仏教を解っていると思い上がっている者たちは、仏教にはことばと思想との両方があり、ことばや文字は仏教そのものではない、と勘違いしている人もいるが、教えとは救いそのものであり、如来はさまざまなことばでそれを我々に教示してくれているのであり、滅諦と道諦を実現することが最終目的としてその言葉が発せられ、その音が文字列に記されているのであって、教えのことばやその音素を記号化した文字列が教えでなければ、滅諦や道諦など一切私たちには伝わらない、ということになり、そのことによって私たちは輪廻や悪趣から脱することなど決してできなくなるからである。

また僧宝に帰依する限り、梵行者の衣や用度品を眼にするだけでも不敬心を慎むようにし、四名以上の比丘衆に対しては、自分たちが輪廻や悪趣の苦しみから解放してくれる支援者である僧宝そのものである、という思いを起こして敬意を払い供養しなくてはならない。梵行者の衣や用度品を粗末に扱ったり、敬意をもたない、ということは、仏法を説かれた釈尊に対して敬意をもたず、その教えに対してもそれを実践している方々に対しても、畏敬の念をもっていない、ということになってしまうからであり、戒体護持の比丘衆を崇敬し、供養することができないで、無常や無我の教えを理解したり、解脱や一切智を目指すことなど一切不可能なのである。

三宝に帰依する時に心がけるべきことには、六つがあり、まずは(1)出来るだけ正しく帰依を行うということである。これについては前の記事にもあるような正しく三宝を理解し、それを救済とするという思いである特殊な知性をなるべく継続的に正しく維持できるようにしなくてはならない。次に(2)何を食べる時も、何を飲む時でも、最初の部分を三宝へ供養するように心がけるべきである。また(3)三宝の功徳や恩恵を記憶に呼び起こす時には、必ず自分以外のすべての衆生たちのことに関心をもつようにし、他の衆生たちに対する慈愛の心によって、彼らもまたその功徳や恩恵を受けるように常にあらゆる手段を講じるようにできる限りするようにする。(4)またどのような仕事や用事をする時でも、その活動のすべてが三宝に則ったものであるように心がけ、三宝を供養するのに準ずる仕事をするように心がけ、それに反する仕事や用事はなるべくやらないように心がけなければならない。(5)さらに三宝の功徳を一日に六度程度は必ず思い出すようにし、帰依文を唱え礼拝をすることによって、日々過ごすようにしなくてはならない。(6)また三宝への帰依心は、命懸けでも死守しようとし、決して三宝への帰依心を翻してしまい、謗法の悪業に陥らないように用心しなくてはならない。何故ならば、たとえ不慮の事故で死んでしまおうとも、それはただ一回の死に過ぎないのであり、謗法の悪業に陥ってしまうことは、一千万回以上も悪趣へ転落を経験しなくてはならなくなるからである。

正しく三宝に帰依することができれば、正しい仏教徒になることができ、すべての戒律を実践する基盤となり、過去に積集した罪障を尽くすことができ、広大なる福徳を積集することができるようになり、悪趣へと転落することもなく、人間や人非人による善業の妨害を阻止できるようになり、希望が叶うようになり、速やかに成仏できるようになるという八つの素晴らしい利益を享受できるようになる。世間の者たちに帰依することは、三宝の無限の利益を享受できるのを捨て、自ら苦しみの海へと飛び込んで死んでいくのと同じくらい愚かなことなのである。本偈はこのことを説いている。本記事では前記事と同様にグンタンリンポチェの『教説入門・帰依指南書・利益賢道灯明』の残りの部分を要約して再構成したものである。

デプン・ゴマン学堂の帰依処である僧衆という宝

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