2022.09.19
ལེགས་པར་བཤད་པ་ཤིང་གི་བསྟན་བཅོས།

毒性があっても出来ることはある

グンタン・リンポチェ『樹の教え』を読む・第12回
訳・文:野村正次郎

不善が尽きていないその限り

何度も苦を経験せねばならない

毒の種子が存在するその限り

毒の実が生えるのは必然である

12

木の実は何でも食べることができる訳ではない。できたての青梅の実を間違って何個も食べると中毒症状を起こすことも多く、特に未成熟の幼い子どもの場合には、中毒症状はひどい。枇杷のように果肉部分は美味しく食べることができるが、その実の部分は毒性があるので食べない方がよいものもある。朝顔のような美しい花を咲かせてくれる植物でも、全部位が有毒であるので、朝顔の花もつぼみも種も食べていけない植物ということになる。朝顔のつぼみはオクラに似ているし、その種子はゴマに似ているので、間違って食べてしまい、嘔吐・痙攣・呼吸困難といった症状を起こしてしまう例もいまの現代の日本でも発生しているとのことである。

毒の種子から毒の実が生えてくるのが当然であるように、不善から起こるものは苦という結果でしかない。何故ならば不善・悪とは苦果を生じさせる業のことであるからである。善因善果・悪因悪果は必然の法則であり、善いことをしたけれども悪い結果が起こるとか、悪いことをしたけれども善い結果が起こるということはない。これが因果応報の法則であり、この法則を誰も変更することができないということが、本偈で表現しようとしている毒の種子からは毒の実しか生えない、ということなのである。

善からの楽果・不善・悪からの苦果は、原因・結果の対応関係があり、時間的な前後関係があるものであるが、不可逆のものであり、原因が結果を生じることができるすべての条件が整っている場合には、結果が生起することを決して退けることができない。望まない結果が起こらなくするためには、その原因や条件となるものが結果を生み出すことが可能な状態から不可能な状態に変えるしかないのであり、私たちが未来にさまざまな望まないことが起きないようにするためには、それ以外に全く方法がない、というのが因果応報の原則であり、業果の法則である。

これは不可逆的なもののであり、時間を遡って、過去を変えることが出来ないので、私たちが関与して変化を期待できるものとは、未来のみということになる。逆縁を活用する、逆境を利用する、というのもこの原則にもとづくひとつの方法であり、私たちが現状に何か問題や不満がある場合には、私たちができることは未来に向けて同種類の問題が発生しないようにするか、発生したとしても被害を最小限に止めるための対策に励むしかない。

仏教は苦痛そのものである苦苦・快楽である壊苦・苦痛でも快楽でもない行苦という三苦を説いており、五蘊やただの物質など通常我々が苦痛であると思っていないこの生命も苦であるという。すべての生物はこの苦を共通して享受しており、すでにここに生まれてきたこのことが苦である。この苦はその原因となる不善業を完全に無くさない限り、生まれて来なくなる、すなわち輪廻から解脱することはできないが、解脱の境地は一気に実現できるものではなく、まずは未来においてこれらの苦が発生しないための予防策を講じて、苦による被害を最小化するための努力をすることができる。

これはちょうど悪性腫瘍や白血病などの治療と似ており、完全にその原因を絶って病気が完治した、という状態に持っていくことはもちろん最終目標ではあるが、そのこと自体が大変困難なため、まずは寛解と呼ばれる症状上が悪化しないで、落ち着いて安定し、日常生活に問題がなく生存可能な状態を目指すのとよく似ている。毒性のある梅でも、適切な処置をして梅干しにすれば、私たちの食生活に彩りを与えてくれるように、行苦という治癒が困難な症状を患っていても、悪趣へと転生したりする、症状の悪化を抑制して、有暇具足の人身を再び得て、輪廻生活にそれほど問題のない寛解の状態を実現することはできる。

昨日からのように大型の台風がやってくる場合には、その台風が来なくすることは大変であるが、すくなくとも私たちはこの台風による被害を最低限に抑制するために、外をうろうろしないとか、風で飛ばされるようなものを放置しない、といったさまざまな対策をおこなっておくことができる。台風や嵐のようなものは、チベット語では「ルンツプ」といい、「荒くれものでコントールできないような風」と表現しているが、私たちは強風を止めることができなくても、強風による被害を最低限にするための対策を講じることはできる。また台風のような荒くれ者があたり一面に強風で被害をもたらしている様を考えて、自分たちは台風のような荒くれ者の風にならないように、周りの生物にやさしく心地よい風を吹かせてみたい、と思うことができる。台風に向かって「帰れ」と叫んでも、その声すら吹き飛ばされるが、自分は台風のような荒くれ者にならないように心で思っているのを台風は吹き飛ばすことはできない。

毒の種からは毒の実しか生えないのは当然であるし、私たちも毒の種のような煩悩によって生まれてきて、煩悩によって死んでいくことだけは避け難い事実である。しかしあたり一面に毒を吐かないで、綺麗な花を咲かせることもできる。現在は毒性があって変えることはできなくても、未来は変えることができる。不善が尽きない限り苦しみは巡ってくるが、幸せを生み出す善業をいま積むことはできるのである。

a close up shot of a morning glory flower
Photo by Kanishka Ranasinghe on Pexels.com

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