長くついていた葉も落ちるなら
もう一度元へと戻ることもない
どんなに親しく共に過ごしても
いつか永遠に別れることとなる
私たちは一人でここに生まれてきて、一人ここで死んでゆく。出逢いがあれば、別れがあり、どんな素晴らしい出逢いでも、それは別れの時を迎えなくてはならない。落葉が元についていた場所に戻ることもないように、私たちがどんなに仲良くし共に楽しい時を過ごしていたとしても、愛する人々、敬ってやまない人たち、彼らとの別れは必然である。愛する者との別れは、すべてのことが無常であること、そしてこの私たちが生きているという輪廻そのもの本質をも表している。
愛するものと別れなければいけないことを「愛別離苦」というが、この愛するものとの別れとは、愛する人間や生物だけではなく、自分が所有している物などとの別れも含むのであり、この苦しみを正確に理解しようと思うのならば、愛する人間だけではなく、愛している物、出来事、そして採取的にはこの私たちの自分の生命そのものとの別れをも含むものであると考えなくてはならない。
『菩提道次第論』などではこの「愛別離苦」には、5種類あるとするので、これを紹介したい。
まずはそのこれまで当たり前のようにあったものが失われてしまった喪失感で悲しみの感情で精神的な悲痛を覚えようになる。喪失感による悲しみは、それが強ければ強いほど、他の感情が起こることを抑制し、悲しい時には何を考えても楽しい気分にならないし、未来に対しても客観的な評価ができなくなり、絶望してしまうといったことが起こる。これがまずは「愛別離苦」の苦しみの一種であり、これは精神的な悲痛そのものであると言えよう。
次にこのような精神状態であるからこそ、他者に発する言葉も自然に悲劇的な内容になり、絶望的な自暴自棄の内容になって、他者に対しても「辛い」「悲しい」と言ってみたり、悲しい歌をうたってみたりするようになる。悲しい言葉を口に出してもその悲しみが消える訳ではないが、悲痛の声を上げるのは、生物的な本能でもあり、悲鳴をあげること自体も苦しみそのものであるということができる。これが第二番目の「愛別離苦」の苦しみである。
さらに胸が張り裂けそうになったり、悲しみで髪の毛が抜けてしまったり、立ち上がれず地面に臥せってしまったり、食欲不振になり栄養素を摂取できなくなったりする。これが第三番目の「愛別離苦」の苦しみであり、別れによって身体的にも直接苦痛を与えられる苦しみである。
さらに、愛していた対象には、その愛すべき理由となった良き性質があり、その愛すべき点があったからこそ、それに何度でも触れたいと思っていたのにも関わらず、それと離別したことによってその愛すべき、自分に幸せや喜びを与えてくれる性質にもう触れることができなくなったことで、その喪失感によって、過去の思い出ばかりを思い出し、悲痛を感じることとなる。これが第四番目の「愛別離苦」の苦しみであり、この悲痛は、過去の記憶を呼び起こすことから起こるものである。
そして愛していた対象が身近にあった場合には、愛すべきものが存在していたことによって、そこから派生する様々な恩恵を受けていたが、離別することによってこれまで恩恵を受けていたものが失われ、いままでよりも享受してきた幸せが享受できなくなる。これが「愛別離苦」の第五番目の苦しみである。失ってはじめて、かつての幸せの有り難みをひしと感じるということになるのである。
このような愛別離苦は苦諦の一種であり、すべて煩悩と業によって起こっているものである。しかるに無我を理解する智慧を育むことでこういった苦しみが永遠に起こらないようにすることが可能であるというのが、四聖諦の教えの基本であり、釈尊の教えの基本ではある。大切な人との別れや大事にしていたものとの別れは、このような5種類の悲痛を私たちに与えるものであり、愛別離苦のなかでも最も強いものは、私たちが自分自身の生命との別れを告げる時の断末魔の苦しみであるが、悲しいことがあるとはいえ、それを過度に悲しむ必要はないのであり、離別による苦しみにもそれを乗り越える対策があるというのが釈尊の教えの基本である。
いまはもう別れてしまった、あの愛する人たちも、無に帰した訳でなく、さまざまな形でどこかに転生し、いまはお互いに見知らぬ存在となったかもしれないが、どこかで生命として生き続けている、と考えるのが輪廻転生の基本的な発想法である。愛別離苦には、それを完全に寂滅させるための対策がある、これが仏教の基礎である四聖諦の教えにほかならない。悲しいことであるが、別れを悲しんでも何も意味はない。そして私たちはいまのこの私たち自身と別れなければならない。愛するものたちとの別れは、いつも私たちに悲しみの意味を教えてくれている。