彩りを変え花開き 実を結ぶ
ひとつの樹ですら時は移ろう
生まれ老い病んで死んでゆく
この舞は刻一刻変化している
仏教を実践するための暇とゆとりに恵まれた有暇具足の人身を得ていても、この生をいま活用しなければ、ここに永遠に留ることができるようなものではない。すべては移ろいゆき、無常であり、一瞬たりとも時の流れを止めることなどできないし、時の流れを逆転してやりなおすことなどできない。私たちが住んでいるこの大地も常に姿を変えているのであり、空を仰いで雲の流れを見つめているとすべてが無常であり、移ろいゆくものであることは容易に理解できるだろう。ひとつの樹、ひとつの植物にしても、日々その葉の彩りは異なっており、最初はちいさな芽であったが、そのうち元気な葉を生やし、そこから花のつぼみを表せて、花が咲いては、枯れて、実を結んでいく。
これと同じように私たち生物は、肉体をもって生まれてはくるものの、日々年を重ねて老いてゆき、体はいつの間にか変化して病という症状に苦しむことになる。そのうちにこの体は役に立たちもしない、使えないものとなり、動きたくてもうまく動けなくなり、ひとつひとつ出来ていたことができなくなり、そのうち、永く見知って仲良くしていた仲間もひとりひとりとこの世を去って行き、私たちもこの世を去らなくてはならない死を迎える日が確実にやってくる。昨日のことも、一昨日のことも、数年前のことも、すべては私たちが見てきた過ぎ去った過去の景色であり、私たち人間の生というものはこのような時間の経過による変化に抵抗することなどできないものである。人生は一年一年その終わりの時に近づいて短くなっていき、一年はひと月ごとに減っていく。このあいだ月が満ちているのを見たと思ったら、すぐに月は欠けてゆき、一度見えなくなってはまた満ちていく夜を繰り返し、一日一日と一ヶ月は短くなっていく。朝日が上り夜明けの黎明を見ていたといつの間にか太陽は真南へと移動しており、まだまだ今日という日があると思っていれば、すぐに夕焼けの空に日は沈んでいく。毎日のこの自然現象を私たちは他人の芝居や他人の舞踊のように見てはいるけれども、それは一瞬たりとも停止することはなく、私たちが見ているこの舞踊は刻一刻と絶え間ない変化をつづけている。そして私たちはただの観客のようにそれをじっとは眺めている錯覚に陥っているものの、実際には、私たちもまた刻一刻と死という避けられない無常へと突き進んでいる。
私たちは大草原にいつも変わらず立っている大きな樹のようにあろうとしても、この樹もまた刻一刻と変化している、移りゆく心の容れ物に過ぎないのである。この容れ物の外に出ることは死を意味しており、ここにとどまっていても死ぬだけであるし、別の容れ物に入っても死ぬだけである。このことだけは決して避けることのできない必定であり、このことを恨んでも仕方がない。私たちにできることは、ここでいま何をするのか、この問いを自分で立て、自分なりにここに留まっているその限り、ここにいることを何とか意味のあるものとし、他者にやさしくし、せめては他者の記憶、私たちの記憶のなかに、ここにいることの意味を刻んでいくしかないのである。幸いなことにいまはまだ少しだけそれをする、少しばかりのゆとりがある。いまは他者とともに生き、他者を利することにより、善き記憶という想い出だけを、自分にも他人にも残していくことができる。
私たちも、そして私たちのすべての生き物も、誰も悲しくてつらい想い出だけを残していきていきたい訳ではない。できれば誰かの役にたち、誰かに好かれ、そして私たちもまたその幸せの記憶を噛み締めていたい。それだけがいまここにいる意味を心に刻むことになるからである。今日もまだ少し余裕がある。今日も、明日も、出来るだけ善い人生をこの樹が枯れるまで続けてみたい。私たちはまだこの大地に立ってはいる。