信心をもち 人柄もよいのなら
ほんの一句でさえも活用できる
初々しくまだちいさな新芽でも
一粒の水滴で大きく育っていく
きちんとした指導者につき、ちゃんと学ぶためには、私たち弟子の方もよい学生、よい弟子であろうとすることが大切である。正しい弟子であるためには、偏見や主義・主張に陥らず、いつも公明正大で、客観的態度をもっていることであり、指導者たちが教えてくれることを自分で実践する時に正しい判断が行える判断力、そして指導者が教えてくれた助言に基づいて、その内容をできるだけ忠実に実践しようとする探究心や努力が必要である。
人身を得て正しい善知識に出会うことができた私たちは、まずは彼らを尊敬し、彼らが与えてくれる教えや助言を真摯に受け止めてその内容を信頼し、常にいい弟子であろうとして、正しく師事しなければならない。しかしながら善を為すための方法を教えてくれる善知識、そして志を同じくする人たちに対して尊敬の気持ちをもてないようでは、どれだけ多くの聖典を聴聞し、その内容を理解することはできたとしても、その聖典で教えていることや、善知識や法友たちが目指していることを実現していくことができなければ意味はない。
どんなに素晴らしい医師に素晴らしい診断をしてもらい、すばらしい処方をしてもらっても、患者の方が、その医師の言葉や助言を無視しているようでは、病気が治ることがないように、如来の言葉を伝えている人たちに対して尊敬の念をもつことができないのならば、彼らの言葉を聞くときにはいつも偏見から猜疑心を心に生み出し、貴重で有り難く尊い教えではなく、ただひとつの空虚な言葉の羅列にしか、その教えを受け取っていないのならば、善業を積集して幸せの原因をつみかさねていくことなどできないし、それをしようとしないことによって結局何の効果もない無意味なことをやっているということになる。その結果、今生でも不幸や問題にばかり直面し、来世でも悪趣を無限に彷徨い続けなければならず、本来幸せになろうとして善業の積み方を学ぼうとしていた最初の目的は失われ、結果として無駄な人生を浪費したまま死んでいく、ということになるのである。
このことを本偈では枯れた木にはいくら水をやろうとも決して葉がつくことはないという喩えで表現しており、ここでは「この天地」と訳したが、原語では、神々が住んでいる天界・人間が住んでいる地上・龍たちが住んでいる地下のすべての世界でという意味である。
弟子が指導者をどのように考えるべきか、という師事作法についてはこれまでも『菩提道次第論』の法話会でも既に詳しく学んできたことであるが、ツォンカパは、ドムトンパの「慢心の丘には功徳の泉が湧かない」という言葉やチェンガパの「新緑は山の高い頂の上からではなく、谷の低いところから持たされる」という言葉などを紹介し、弟子は師匠をどんなことがあろうとも深く敬う気持ちを失わぬように気を付けるべきことを説くように、師に対する畏敬の念をもち続けることは、仏教を学ぶ上での基本として極めて重要なことである。しかるに多くの師匠に師事して、一度師事した後に、その師匠に対する敬意を失ってしまうことは非常に罪深いことであるので、最初のうちは少ない師匠に師事して、気持ちを翻さないことの方がよいとされる。
人間は時として非常に傲慢であり、自己中心的なものの見方を基盤とする価値観を持ちがちである。師匠に敬意をもつことは勿論のこと、自分たちに危害を加えてくるような生物に対しても、常に敬意をもって接するべきであるということは大乗の菩薩の精神の根底にある。決して驕り高ぶることはなく、低頭慇懃である姿勢こそが、すべての幸せの第一歩であることを本偈は教えている。