如意樹へと願いをかけておけば
欲しいものはすべて降ってくる
勝れた善知識に師事していれば
善き資糧は自然に成就している
カダム派の祖ポトワは、これまでずっと地獄や畜生などで迷い続けてきた人間が、いきなりこの人間の境涯に生まれてきて、その生まれたばかりの状態では、これからどうしたらよいのか分からないのは当然である、と説いている。
いま私たちが人間に生まれているのは、過去に何か良いことをした結果ではあるが、これからどうしたらいいのか、誰かに教えてもらわない限り、分からない。生まれてきたばかり子供がいきなり大人のような経済活動や奉仕活動などできないし、まずは教育を受け、その教えを実践していかなければいい大人にはなれない。現世のことですらそうであるので、ましてや一切衆生のすべての苦しみを救済して、すべての衆生を解脱や一切智者へと導こうとする大乗仏教の理念を実現するためには、まずは正しい指導者に正しく師事することが必要となる。
では私たちが正しい指導者に正しく師事するためには、どうしたらよいか、といえば、まずは仏教を学んでいく上での正しい指導者とはどのような条件を備えた人物でなければならないのか、そして私たちは正しい弟子となるためにはどうあるべきで、どのように師事したらいいのか、という正しい師事作法を理解している必要がある
仏教を学ぶ上での第一歩は、正しい指導者とはどのような人物なのか、ということを理解することにある。もちろん同じように仏教を学んでいる人たちからの推薦や意見なども参考にはなるが、自分自身が「善知識の条件」を理解していなければ、間違った指導者に師事してしまうことになるので、まずは自分たちが指導者として師事してよいかどうかを、自分で判断するために、「善知識の条件」というものが説かれている。
「善知識の条件」とは、まずは戒律をきちんと守っており、心の平安を実現し、煩悩に作用されない心の強さをもっている人たちでなくてはならない。これは釈尊が説かれた戒・定・慧という学ぶべきものをきちんと学んでいる人、ということとなる。さらに私たちが指導者として仰ぐ人物は、すくなくとも自分たちよりも明らかに優れた長所をもち、勤勉で努力家であり、私たちに模範を示し、仏典によく通じており、常に正しい決断ができる判断力をもち、問題がある時にでも正しい判断を教示することができる能力が必要となる。さらに弟子を指導する能力もあり、どんな時にもやさしく語りかけてくれ、どんなに不勉強であり弟子の学習能力が低くても、決して弟子を見捨てることのないやさしさをもつ人物、このような人物が「善知識」として要求される条件である。
私たち仏教徒にとって、根本の師は釈尊であり、いま私たちは釈尊の直弟子となることはできなくても、善知識たちは釈尊が私たちに伝えたいことを伝えてくれる方々である。本偈では善知識に師事できていることを、如意樹を享受できる神々と比較しているが、善知識に正しく師事することができる限り、すべての福徳と智慧の二資糧などは、それほど努力をすることなく、自然に実現していく、と説いている。正しい師に弟子としての正しい心構えをもち、正しく師事することはこのような無限の功徳を未来に自分のものとするための第一歩である。私たちが善知識として仰ぐべきこのような尊い人物である善知識の根本は、釈尊である。そして私たちは釈尊の学生である。これから先何があろうとも、そしてどこに生きていようとも、私たちは自分たちの指導者が釈尊であると思い、その教えを手がかりに生きる限り、その人生は素晴らしき人生であることを本偈は教えている。