2022.08.12
ཀུན་མཁྱེན་བསྡུས་གྲྭའི་རྩ་ཚིག་

実体法に関するさまざまな遍充関係

クンケン・ジャムヤンシェーパ『仏教論理学概論・正理蔵』を読む・第32回
訳・文:野村正次郎

ある基体が有るならばその有の証解、

無い場合にはその無の証解のすべて、

その対立とその別異者のそのすべて、

否定基体をもつ法である場合には、

所遍・関係者・依存者のすべて、

事物であれば因・果のそのすべて、

それがそれ自体たる諸法である場合は

その抽象との対立者は残りなくすべて、

有か無ならその別異者たる肯定はすべて、

一切の有無の場合、それを表現する音声と、

それと表現する音声のすべて、

これらのすべては実体法である。

一方、それ以外のあるものが有る場合、

それらのすべては実体法と確定できる。

所知 事物 肯定などの単体は、

阿闍梨の言葉から理解しなさい。

八咫烏や鳳凰や烏や梟などの「烏」が何故「実体法」である、と言えるのか、といえば、前回の記事で見たようにその法(甲)が、「甲は甲であり、かつ甲でないものは甲ではない」、すなわち「鳥は鳥であり、鳥でないものは鳥ではない」と言えるからである。これについては前回の偈の部分では「汝は汝であり、かつ汝でないものは汝ではない。」といっているもので既に確認した。

この場合の呼称「実体法」という名称(nx)を使用するためには、その名称使用の条件となる「汝は汝であり、汝でないものは汝ではない。」(d)というものがあり、同時に名称(nx)を使用して総称される具体的な八咫烏(n1)や鳳凰(n2)や烏(n3)や梟(n4)という具体例がある。この(nx)のことを定義対象(མཚོན་བྱ།)と呼び、(d)のことを定義(མཚན་ཉིད།)と呼び、(n1), (n2), (n3),(n4)…などを定義基体(མཚནགཞི།)と呼ぶ。定義基体は定義対象で呼称され、その呼称の根拠となるものが定義であり、この定義基体・定義対象・定義の三者については、後述するがこれは「xyである。何故ならばzであるから」という命題の形式に代入される変項のひとつであると言うことができる。

xは実体法である。何故ならば、xxであり、かつxでないものはxではないからである」という命題は、x自身に関する名称上の特性を述べる命題であり、この命題に対する推理式の論証因は「言説のみを論証する論証因」と呼ばれており、ある主題に対して、それを何らかの法であることを述定する根拠を表すものであるが、あくまでもある対象の言説であることを述定するだけであり、何か別のことを証明している訳ではなく、言わば術語の使用の根拠を述べているだけに過ぎない。たとえば「桜は木である」という命題は、桜は花なのか、木なのか、どちらか迷って決めかねている人にとっては重要な命題であり、「木」であるという名称を使用の使用要件となる「木」の定義を論証因として、命題を構成しなければ「桜は木である」という記述は不可能であるが、「桜は木である」ということが真実であり、これに何ら疑問すら持っていない場合、わざわざ「桜は木である」という命題を構成する必要がないし、その場合には何の疑問もない「桜」という主題に対してわざわざ「木である」という言説のみを論証する命題の構成は不要ということになる。

これと同様に八咫烏や鳳凰や烏や梟などの烏が実体法であるのか、観念上の抽象的な存在なのか、通常私たちは疑問を抱くことはない。八咫烏や鳳凰のような珍種の鳥の場合には、あまりみたこともない存在であるので多少は疑問をもつことがあるかも知れないが、烏や梟などはどこにでもいるし、とりたてて問題にすることでもないだろう。同様に我々人間の場合でも、人間が観念上の存在であると考える人は殆どいないし、実体としてここに手足をもって生きている自分たちのことを考えれば、人間が実体であることは全く問題なく理解できる。

しかし、私たちの人間は、自分たちが人間であるということ、自分たちに人間が実体として存在しているもの、ということと、常住で単一で他のものに依らないで存在しているものであることとを区別することなく普段暮らしている。私は昨日も今日も変わらない私であり、私はひとりであり、私は他のものに依らないで私であるといえる何か実体的な存在であると私たちは考えている。この「常住で単一で他のものに依存していない実体として存在しているもの」である「私」「我」など、あり得ないというののが、仏教の根本命題である「諸法無我」の意味であり、この無我が分からないからこそ、私たちは輪廻転生し、生老病死の苦しみの淵に落ちており、だからこそ「常住で単一で他のものに依存していない実体として存在している私は存在しない」すなわち無我を理解してはじめて、あらゆる煩悩を断じることができるようになる。つまり「実体である」といえるかどうかが分かっただけでは無我を理解することはできないし、通常私たちが「常住で単一で他のものに依存していない実体として存在している私がいる」と考えている我執を断じるためには、「実体である」といえるそのものがもつ、基本的な特性をさらに詳しく知っておく必要があるのである。

この目的で実体法のもつ様々な遍充関係を説いているものが、ここの偈文となる。残念ながらここの偈文の表現は原文でも一読してぱっと理解できるようなものではない。ひとつひとつの表現を具体的な命題に展開して理解し、その後記憶用に構成したものが、ここの偈文となるので、まずはそれをひとつずつ展開しながら確認していこう。

ここでは「(x)が実体法である」と言うことができる場合に、「(x)は(x)であり、(x)でないものは(x)ではない」というもの以外にどのようなことが言えるのかといえば、偈文を展開して列挙すれば以下のようになる。

  1. x)が有る場合、(x)が有るとする正しい認識は、実体法である。
  2. x)が無い場合、(x)が無いとする正しい認識は、すべて実体法である。
  3. x)との対立者あるいは(x)との別異者は、実体法である。
  4. x)が否定基体を伴う法である場合、(x)の所遍・(x)との関係者・(x)への依存者はすべて実体法である。
  5. x)が事物であれば、(x)の原因も(x)の結果も実体法である。
  6. x)が(x)である法である場合、(x)の抽象体との対立者は実体法である。
  7. x)が有る場合でも無い場合でも、(x)との別異者たる肯定は、実体法である。
  8. x)が有る場合でも無い場合でも、(x)を表示する音声と(x)の音声は、実体法である。
  9. x)ではないものが有る実体法であれば、(x)ではないものは実体法である。

以上がここでまとめられている内容であり、所知や事物や肯定などを具体的に変項(x)に代入して適用した場合に、どうなるのかということについては詳しくは先生から教えてもらえば分かるでしょう、と結んでいる。

これらの実体法と呼ばれる(x)がどのような述定ができ、他の述語とのどのような論理的な必然関係があるのか、というのは、以上であるが、これが難しく感じるのは、具体的に(x)に「柱」「瓶」などを代入して何度も命題を組み立てる練習をしたことがないからである。ただここへ変項(x)は存在している場合も存在していない場合もあるし、(x)に所知・事物・肯定などの少し難しいものを代入した場合には、さらに命題を組み立てていくのは難しくなる。しかし毎朝毎晩こういった法友とこういった問答を繰り返しながら、仏典の師匠たちから指導を受けていけば次第に理解できるようになるのであり、ゲルク派の本山に限らず、こうした議論は、チベット仏教のほぼすべての本山における仏典の学習の基礎教育として行われているものである。この伝統は、インドのナーランダー僧院由来の伝統であり、若い僧侶たちにもこのような複雑な議論で思考力を鍛錬するプログラムを課して、真実を探究する学僧たちを養成しているのは、残念ながらチベットの僧院のみであり、このような伝統が現在も継続しているのは、人類共通の無形の遺産といっても過言ではないだろう。

「つぼを主題としよう。つぼはつぼであり、つぼではないものはつぼでないならば、つぼは実体法である。何故ならば、それはつぼの実体法であることの定義であり、なおかつ、つぼとの対立者は実体法であるからである」のような問答では、問答の相手が早口でいうのを瞬時に理解する論理的思考力が鍛えられる。

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