この実体法というものとそれに準ずるものは、
汝は汝であり、汝でないものは汝ではない。
自体である抽象法とそれに準ずるものは、
汝は汝であり、汝でないものも汝である。
自体でない抽象法とそれに準ずるものとは、
汝は汝でなく、汝ではなくとも汝ではない、
このような特殊法が継続するものである。
この三者のどれにも準じてないものは、
汝は汝でなく、汝でないものが汝である。
それぞれの能証は名称の基体たるもの
その抽象体 それ以外のもの その対立者である。
私たちは普段の生活では何となく漠然と暮らしている。特に根拠もないのに、これはきっとこうだろうなという先入観をもって「これはこれこれです」と言ってみたり、「これはこういうものです」と言ったり考えていたりする。確信ができなくなると「それは多分こうですね」と言ってみたり、「それはこうだと考えた方が良さそうですね」と少しだけ控えめに表現してみたりしている。さらに自分の考えに自信がもてなくなると「あの人はこう言っていました」「あの本にこう書いてありました」「ネットにこう書いてありました」と自分の考えでもないのに、自分で考えて結論をだした考えであるかのように発言する。私たちは物事をよく分かっていないのに、それについてあれこれということを好んでおり、少しだけ面白く愉快な表現を見つけては、面白いなと思ったり、これが真実だろうなと予測してみたりする。私たちの思考や言動は実にあやふやな日常を過ごしている。その結果、ふと気づくとどんどんと老いており、死に向かい一直線に進んでいる。
このような様々な観念や思い込みに作用されることがなく、そのもの自体が本当に実質的に存在しているものはある。たとえば葡萄や桃のような果物は、実際に存在しているものであり、葡萄や桃を食べれば甘いという感覚が起こるし、葡萄や桃のような果物の大部分は植物の果実として、自然のなかで育ち、それを収穫して食べてみるととても美味しい味がある。葡萄は葡萄であり、マスカットも葡萄であり、巨峰も葡萄であるので「葡萄は葡萄である」という「甲は甲である」という命題は正しい。桃の場合も同じであり、「桃は桃である」といえる。
こう考えると「甲は甲である」という風にいえるものはすべて実際に存在しているものである、かのように思えてくる。しかしながら「甲は甲である」と表現できるすべての場合の「甲」が実際に存在しているものである、といってよいかといえば、そうではない。たとえば「無いものは無いものである」であるとことはいえるが、「無いもの」は無いので存在しないし、実質的には何もないだけであり、それを永遠に確認することもできないので、「無いものは無い」すなわち「甲は甲である」と表現できるが、それは実際に存在するものではない。実際に存在しているかどうかを問いかけるときは、まずはそれを認識することができる可能性がある存在であることが前提の条件としてひち様であり、「甲は甲である」と表現でき、かつ「甲ではないものは甲ではないものである」と表現することができない限り、実際に存在しているであるとは言えない。これが実体法(実在物)とそれに準ずるものは「汝は汝であり、汝でないものは汝ではない。」といっている部分の意味である。チベットの論理学で用いる論証式の定型表現として「甲は乙である」という記述がある場合の甲に代入できる変項「甲」のことを「汝」という言葉で二人称の人称代名詞で記述するが、これは「(x)は(y)である」と記述する場合の「(x)」と同じであり、「(a)は(b)である」と記述する場合の「(a)」と同じ論理的な命題を表現するための一表現である。
それでは「甲は甲である」と表現でき、かつ存在し、実質的に有るもの条件としての「甲ではないものは甲ではないものである」という部分が成立しない場合がある。これを本偈では、「汝は汝であり、汝でないものも汝である。」と表現し、それを「自体である抽象法」であるとしている。これは具体的にはたとえば「名称」がそれである。「名称」というのは様々なものに付すことのできる名称のひとつであるので、「名称は名称である」といえる。それでは「名称ではないもの」は「名称」ではないか、といえばそうではない。犬や猫は実際に存在しているものであり、「名称ではないもの」であるが、名称そのものではなく、「名称ではないもの」である。しかるに「名称ではないもの」は、「名称」であり、実際にある対象のように「甲ではないものは甲ではない」とはいえず、「名称ではないもの」も「名称である」ということができる。すなわちこの場合には「xはxであり、かつxではないものがxである」ということが言え、そのような「x」は実際に存在しているものではないが、x以外のものを排除した場合に、観念上作ることができるものである。このような抽象化を行うことによってのみ存在するものを「抽象物」「抽象法」「孤立体」と呼び、存在しているが実質的な存在をともなってはない観念上の存在であり、「仮設有」「施設有」という術語で表現される。
この抽象体には、「甲は甲であり、かつ非甲は甲である」場合、「甲は非甲であり、かつ非甲は非甲である」場合、「甲は非甲であり、非甲は非甲である」という三つの可能性があり、最初のものを「自体である抽象法」、第二のものを「自体でない抽象法」と呼び、第三のものを「第三項の抽象法」と呼んでいる。「自体でない抽象法」とは例えば「定義」というものがそれにあたる。なぜならば定義は定義ではなく、何かよって定義されるものであるので、「定義(甲)は定義ではないもの(非甲)であり、かつ定義ではないもの(非甲)は定義ではないもの(非甲)である」と言うことができ、これを本偈では、「汝は汝でなく、汝ではなくとも汝ではない、という特殊法が継続しているもの」というように表現している。「第三項の抽象法」とは「甲は非甲であり、非甲は非甲である」である場合であり、すなわち本偈で「汝は汝でなく汝でないものが汝である。」と表現しているものである。
ここでは、この「実体法」「自体である抽象法」「自体でない抽象法」「第三項の抽象法」というこの四者をある任意の変項甲について、順に、甲の名称の基体・甲の抽象体・甲ではないもの・甲との対立者であると述べている。
たとえば、たとえば「カラス」を例にした場合、「カラス」の名称の基体である「明け方に哭いているカラス」は「明け方に哭いているカラス(甲)は明け方に哭いているカラス(甲)であり、明け方に哭いているカラスではないもの(非甲)は明け方に哭いているカラスではない(非甲)。」といえるので「実体法」であり実際に存在しているものであり、「カラス以外のものから抽出したカラス」という「カラスの抽象観念」は、「カラスの抽象観念は(甲)カラスの抽象観念である(甲)が、カラスの抽象観念でないものは(非甲)、カラスの抽象観念(甲)である」ので「自体である抽象法」とういことができ、「カラスの抽象観念以外のもの」は、「カラスの抽象観念以外のもの(甲)はカラスの抽象観念以外のものではないもの(非甲)であり、カラスの抽象観念以外のものではないもの(非甲)は、カラスの抽象観念以外のものではない(非甲)」であるので「自体でない抽象法」であり、フクロウなどの「カラスとの対立者」の場合には、「カラスとの対立者(甲)はカラスとの対立者ではなく(非甲)、カラスとの対立者でないもの(非甲)が、カラスとの対立者(甲)である」と言えるので、これは「第三項の抽象法」ということができる。
以上がジャムヤンシェーパのこの部分の記述の意味している内容であるが、具体的にはどのようなものを何故そのような実体法として、どのようなものを何故三種類の抽象法とするのか、ということについては次節以降で提示されているので、それについては次節以降で学んでいきたいが、これらの実質上の実体として存在しているものなのか、あくまでも観念上存在しているものなのか、という問いかけは、無常や無我を後に考える上でも極めて重要な論理的な思考であり、こうした論理を理解することなく空性を観想することもできないし、無我を直観し、その直観と同時に本尊の曼荼羅を観想する密教の修行もすることはできない。これらの論理的な思考法は、チベットの僧院では子供のときに徹底的に身につけることであり、ゲルク派の僧院では、こうした論理的な特訓をすることなく、秘密集会などの無上瑜伽怛特羅の修行など不可能であると考えている。
たとえばツォンカパの高弟であるケードゥプジェは、『生起次第悉地大海』で
「衆生世間・器世間などが何も無くなったと修習することは、これらの衆生や器世間が現前の対象として直観でき存在しているのにも関わらず、それが無となったと観想することであるので、断見のなかでも最もひどいものであり、断見はそれが起こっただけで大地獄の原因となるので、可能な限りこれを排除しようとすることが正しいのであり、それをわざわざ修習するのは正しくない」
と説いているし、また
「密教の大学者たちが真言乗の修習に関しても『量評釈』の聖言を引用し、それを典拠として大変多くのことを証明されているので、正理の自在者である御二方(ディグナーガとダルマキールティ)の諸々の聖典は内明ではなく、特に密教には必要のない無意味なものである、と自分が正理を分かっていないことの代わりに世間の眼たるものを批判することなどすべきではない」
と説いている。
とはいえ、クンケン・ジャムヤンシェーパは密教の修行をして誤って理解して、不可抗力で地獄に落ちてしまうのは、密教の修行をしたということの証左であるので、それほど悪いことではない、といっているようであり、論理学を正しくはじめから理解できなくてもよいということをダライ・ラマ法王は紹介している。
その根拠として、かつて釈尊在世の時代に、文殊菩薩が長期的な視点にたって大乗法を衆生に説き、その結果、機根が熟していない弟子たちが誤解して地獄に落ちてしまった時の故事で理解すればよい、と説かれている。文殊菩薩が有る時大乗法を説かれ、それを聴聞して、誤解して地獄に落ちてしまっても、地獄から再び人身をうけて、人身に再生した時には、すでに大乗法を聴聞した習気が残っているので、大乗法を聴聞した経験に乏しいよりもはやく仏位を成就できるので、文殊菩薩が大乗法を機根が熟していない弟子たちに説いたのは長期的な視点に則ったものであり、誤解によって地獄に落ちたものがいようとも、大乗法を説いたこと自体を声聞独覚たちのように、批判してはいけない、と釈尊自身が教えておられる、とのことである。
ディグナーガやダルマキールティの大成した論理学を理解することは容易ではないし、チベットでさらにそこから発展した実在とは何か、観念とは何か、ということにまつわるこれらの議論は困難を極めている。ただこれらをチベットの僧院ではナーランダー僧院から伝わる基礎教育として学んでいるのであり、チベット仏教圏の仏教徒もまた、このような思考訓練こそがナーランダー僧院から伝わる正当な仏教の基礎教育であるとして、義務教育の一貫として学んでいることは事実である。論理的な思考ができなければ、無常や無我を現観できることもなく、それができなければ、利他法身を得るために、秘密真言乗の観想をして、幻身を成就して即身成仏することなど不可能である。
実在物なのか抽象物なのかということは「(x)は(x)であるかどうか、同時に、(x)ではないものは(x)であるかどうか」という問いを繰り返すことにより生成できる単純な命題の分岐であり、代入する変数(x)には無限のものがあるが、(x)が具体的な実在者なのか、あるいは観念上の存在なのか、ということを特定できる思考力は、一切の有為法の無常や諸法無我を確定する上で不可欠であるのはいうまでもないだろう。多少間違って理解しても、密教の修行のように地獄に落ちる恐れもないので、これについてさらに次節以降、チベットの論理学の醍醐味ともいえる詳細かつ難解な議論を概観しながら読者のみなさまとともに私たちの思考力の限界を乗り越えていきたいと思う。