清浄善品には、身語意の十善、三の福業事がある。
道品には三五、十五、菩提道品は三十七、
波羅蜜は六・十、共不共の功徳がある。
法蘊は八万四千、教説は十二部、蔵は経律論の三蔵、
作・行・瑜伽・無上、これが秘密真言特羅部である。
成熟させる瓶灌頂等の四種灌頂があり、
解脱させる生起・究竟の二次第である。
果位の仏身に四身、仏智には五ある。
さらに滅道の二諦、仏身・仏智・仏業がある
意に沿った結果をもたらすことを明確に予告可能なものを善というが、具体的に善であると言われるものにどのようなものがあるのか、ということをここでは列挙している。
まずは不殺生・不偸盗・不邪婬という三つの身業すなわち行動、不妄語・不綺語・不悪口・不両舌、の四つの語業、すなわち言動、不慳貪・不瞋恚・不邪見の三つの意業、これらは十善であり、布施所成、持戒所成、修習所成の三つのものは善であり、福徳でもあり、業そのものであり、善なる意志の基盤(事)となるので「福業事」と呼ばれている。これらの十善・三福業事は常に他の衆生に快適であり、他の衆生の心に叶うような現象を作り出すことが明確に予告できるものであるので、善であり、それらの結果は、衆生の快楽、すなわち衆生が幸せであると感じることのできるものごとを生み出し得るものであり、これらは前の記事で書いたように社会的なものではなく、その行為や言動や思想それ自体が、他の衆生に対して心に叶う事象をつくりだすことができるのか、どうかによって峻別される善そのものであり、この十善・三福業事は善のなかでももっとも基本的な善である。
次に最終的な解脱の境地へと至る各段階の境地を区別し、その各段階において働いている知のことをそこへと至らしめ、導いていくものという意味で「道」と表現するが、この「道」は、解脱道・智・智慧・現観・仏母・乗というのと同義語であり、それを分類すれば、法を現観している資糧道、法の意味している対象あるいは目的を玄関している加行道、対象の本質である真実を現観している見道、見道の後にそれを繰り返し修習する修道、その修習によって煩悩を断じ尽くした無学道という五道があり、それぞれに声聞乗・独覚乗・菩薩乗の三乗があるので、合計三乗五道で十五乗がある。
真実を現観し見道に入った後には、凡夫ではなく出世間の聖者の境位となるが、この聖者の境位における智は、最終的な菩提に対応しているものであるので、これは「菩提道品」と呼ばれ、それには、四念処、四正道、四如意足、五根、五力、七覚支、八正道の合計三十七菩提道品があり、これは三十七菩提道分とも呼ばれるものであり、三乗それぞれの聖者の境位を得た者たちが実現していくものであり、三十七菩提道品は声聞乗・独覚乗という小乗のみの教義でもないし、凡夫が誰でも容易く実践して実現できる境地でもない点については、誤解している人々も多いので注意が必要であろう。
菩薩の場合には、一切衆生の利益のために菩提を求めたいという菩提心を起こした後には、布施波羅蜜・戒波羅蜜・忍辱波羅蜜・精進波羅蜜・禅定波羅蜜・般若波羅蜜の六波羅蜜を菩薩行として修習しゆき、その上で方便波羅蜜・願波羅蜜・力波羅蜜・慧波羅蜜の十波羅蜜を修習していくが、菩薩の修道位は、初歓喜地・第二地離垢・第三地発光・第四地焔慧・第五地難勝・第六地現前・第七地遠行・第八地不動・第九地善慧・第十地法雲の十地の段階で進化していくものであり、それぞれの地において布施波羅蜜から慧波羅蜜までの十波羅蜜を完成させていく。また聖者位は、仏とも共通している五十三の功徳を備えており、仏位を実現した如来は、他のものとは共通していない十八不共法の功徳を具足している。以上が解脱道における善品である。
こうした基本的な善や善道品を説いているものは、釈尊が説かれた八万四千よりなる法蘊であり、それは表現の形式で分類すれば、契経・応頌・記別・諷偈・自説・縁起・譬喩・本事・本生・方広・希法・論議の十二分教となり、この十二分教は、経蔵・律蔵・論蔵の三蔵に帰属させることができるものである。この三蔵に含まれない第四蔵であるという学説もあるものが、因波羅蜜乗ではない、果秘密真言金剛乗を説いた怛特羅である。それには所化の能力に従って、作怛特羅、行怛特羅、瑜伽怛特羅、無上瑜伽怛特羅という四部の怛特羅部があるが、そこでは前述の善道以外に、所化を成熟させるための瓶灌頂・秘密灌頂 ・般若智灌頂 ・第四灌頂の四種灌頂があり、それによって成熟した特殊な器となった金剛弟子が修習してゆくべき生起次第・究竟次第の二次第があり、この二次第の修習は、波羅蜜乗の六波羅蜜などと対応しているものではあるが、顕教では説かれていない善道である。
最終的に如来の境地に至った時には、自性法身・智慧法身・受用身・変化身の四仏身を同時に実現し、それと同時に大円鏡智・平等性智・妙観察智・成所作智の四智を実現した一切相智の境地を成就しているが、この果位においては通常私たちが現在もっている身体や精神とさまざまな活動の代わりに、仏身・仏智・仏業があり、苦諦・集諦の代わりに、滅諦・道諦があり、その不可思議なる功徳は無限であり、永遠であり、絶対的な善である。
本偈では数のみを列挙しているが、ここでは個々のものを挙げておいたが、これらの善とは如何なるものであり、どう定義され、どのように衆生に対してはたらきかけることで、衆生に楽を与え、恐怖や悲劇から救済するのか、ということは具体的には五大聖典などの学習を通じて学ぶことであり、クンケン・ジャムヤンシェーパは他の著作ではこれらのすべての項目について詳細な説明をしているが、ここではそのような善の体系がある、ということを若干補足して紹介するに留めておきたい。
以上が善とは具体的に何か、というその全体像であり、私たちが仏教を学んで、善業を積んでいくということはこれらの善を自分自身の力でただひたすら精進を喜びとして実践していく、ということにほかならないのである。