2022.05.29
ཐོག་མཐའ་བར་དུ་དགེ་བའི་སྨོན་ལམ།

菩提心の馬に乗って彼岸まで駆け抜ける

ジェ・ツォンカパ『初中後至善祈願』を読む・第9回
訳・文: 野村正次郎

このように聞思修で勝者が意図された

その枢要を心の流れに創りだした時

再生を渇愛してしまう現世での栄光や

己の楽などは求める気にもならぬように

16

自分の所有しているすべてのものに

愛着もせず惜しみ深い気持ちも克服し

はじめは有情たちには所有物を施して

周りに集う者たちを法で満たせるように

17

授かった学処は細いものでさえ

出離の意志で菩提に至るその時まで

身命さえもかけて放棄せぬようにし

解脱の勝幡を常に護り通せるように

18

私に苦痛を与えてくる有情たちを

見かけたり話に聞き想像してみる時に

彼らを嫌う気持ちを捨ていま一度彼らの

長所を褒め称え忍辱を修習できるように

19

純白の正法の未だ得てないものを得て

既に得たものはさらに高めて発展させる

これを損なう三種の懈怠はすべてを

断ち切って精進に邁進できるように

20

有辺へと堕落させる観の力をもたぬもの

寂辺へと堕落させる悲の潤いもないもの

その大部分が再生へ導く止は捨て去って

止観の双運こそを修習してゆけるように

21

甚深実相の深層に恐れ慄いてしまい

想像上の部分的空を最勝と勘違いする

そんな悪しき誤解のすべてを正しく断じ

一切法が本来空であることを証解せんことを

22

私たちはこれから死んでゆく。ここには長く留まることもできないし、愛する家族や友人や、執着してきた現世の栄華のすべては幻の劇場のように幕を閉じてゆくだろう。しかしこれはすべての終わりではない。ここで出会ったこと、ここでこの心で生きてきたこのことは、再びここに暇とゆとりのある人身を得て、この続きをやらなくてはならない。それはすべての私たちが大切にしている母なる衆生たちのためである。無限の衆生たちの幸福を無限に願うため、私たちは祈りを捧げる。この祈りは、これからの彼らの未来のため、そして私たちの未来のためのものである。

再びここにやって来ることができたのなら、決して他の生き物を傷つけないための生き方を選択する。梵行の修行者となり、このすべての衆生のために、自分の望みなど決して求めることなく、ただ他の人たちが幸せであり、苦しむことがなく、いつも笑って心安らかに過ごせるよう誓いをたてる。同じ志をもった先輩であり、先生である善知識に正しく師事して、如来の言葉を教えていただき、それを記憶し、思索し、その思いが決して途絶えることのないように修習をする。ある程度思いが揺れ動くなり、決意と判断力がついたのならば、ひとり洞窟のような人里離れた場所へと棲家を移して、この喧騒のなかで苦しんでいる衆生たちのためになる根本的なことを実現しようとする。

自分たちの心のなかには如来たちの深い意図が流れるように継承できている。それは灯火であり、この灯火は世界に明るい希望の光を照らすだろう。もはや私たちはただここに生きていることには何らの執着ももたないようにする。この世間での栄光など所詮何ら信頼に足りるものではない。そして自分自身が欲望のすべてを全うできるような享楽的な神々になれたとしても何ら問題は解決しない。私たちがいまここで実現していかなければいけないことは、他者の利益のために、すべての他者を救済できるような一切相智の境位を実現することにほかならない。この菩提心でいまだ起こっていない 部分は起こるようにし、多少なりとも起こった菩提心は深みをおび、さらに増大し進化させていかなければならない。

自分たちのもっている所有物など一切必要ないものである。誰かのためになるのであれば、たとえこの洞窟に盗賊がやってきても大歓迎だ。すべてを彼にあげてやろう。そしてもう盗賊なんてやめなさいと法を語りたい。他の衆生に苦しみを与える行為は、彼らの苦しみの原因となるからである。私たちはどんな衆生を傷つけないために再びここでも誓いを立てたのである。だからこの誓いはどんな小さなことでも命をかけても護り抜いていかなければいけない。私たちは如来の慈悲の軍隊に属する戦士なのである。決して如来の勝利の幡をおろして敗北宣言をするわけにはいかない。この勝利の旗がたなびくところ、それはすべての衆生に安らぎがある場所であることを示しているからである。

衆生たちにさまざまな者がいるのは当たり前のことだ。こんな世捨て人のような生活をしていても、ここにやってきて、悪さをしようとする者がいるらしい。そんな者を見かけた人や、そんな者がいることを私たちに教えてくれる者もいる。彼らのことを思うと実に可哀想になる。彼らが私たちを殴打すれば彼らは幸せになれるのだろうか。彼らは暴力で他の衆生を害していても決して幸せになれることはない。彼らはただ誤った不幸の選択をしているだけなのである。そんな彼らでも完全なる悪人ではないし、罪業だけしか積んできた訳ではない。彼らにも愛する者がいるだろう。彼らにも大切な者に役にたちたいという気持ちはある。ただ何もわかっていないだけに過ぎないし、無知なだけなのである。彼らが不幸であり、さらに不幸になろうしているのなら、私たちは少しだけ自分の苦痛などに耐えるたけで彼らは幸せになれるのだろう。だからこそ私たちは忍辱というこの如来たちが教えてくれた素晴らしい選択をするのである。

このような選択をしていても、私たちの心には魔物たちが囁いて来る。いま私たちが行おうとしている無私の善業よりももっと自分たちに直接的に役に立つ楽しい悪業というものがあるので、そっちをやった方がいい。利他のためと思っても、そもそも他人の考えや要求など無限にありすぎて、そんなことを一々やっていてもきりがなく、こんな面倒なことなどもうやめてしまおう。善いことをしたいという気持ちはあるが、自分にはいまそんな立派なことなど出来っこない。これらの思いはただの怠慢で無為に過ごそうとする悪魔の囁きである。悪いことや現世利益のためには、さんざん努力して苦労してもその努力が惜しいと思わないのに、なぜ善業や未来永劫の衆生の救済のためには、善への精進を怠ろうとしてしまうのだろうか。遠い未来に無限の衆生を苦しみから解放するという善への精進を喜びとしなければならない。ひとつひとつその巨大な目標に私たちは歩みつづけていることができるのである。すべての怠慢な精神を捨て去って、如来や菩薩たちの無限の祈りを実現するために、精進を絶えぬように重ねていけるようにありたいのである。

精進ができるようになったら禅定を完成していかなければならない。私たちが行うべきことは如来たちが教えてくれている禅定なのであって、単に何も分析せず、何もしっかりと判断もしないで、三昧にはいり現世利益を実現することではない。そんな禅定をいくらしたとしても、せいぜい色界や無色界に再生するだけであり、六道輪廻から解脱するためには一切役に立たないものなのである。さらに輪廻から解脱を目指すとしても、身体や存在が見えなくなるようになって単に何も起きない、寂静の淵へと落ちるための禅定では意味がない。慈悲という無限の衆生たちへの潤いがないのならば、乾燥した砂漠のなかでひとり干からびている状態と全く変わりはない。誰も救うこともできないし、それらは孤独に砂漠のなかで死んでしまい、再びまた別の荊の場所へと再生するための原因をつくりだしているのに過ぎないのである。しかるに極度の集中と静寂を実現する止の修習だけではだめなのであり、心を対象に留めながら、なおかつ一切の対象の真実の姿を分析し、観察できている観の修習を合わせて行わなければならないのである。

一切法が無我であると知ろうとすれば、このいまの私たちが存在していない、ということと無我であるということを区別できていないことに気づくだろう。自分はいまここにいる筈なのに何処にもいないのか、いまここに生きているのに死んでいるのか、これは幻なのか、すべてのものが分からなくなってしまい、迷いの深い闇の淵に落ちていき、恐怖で慄いてしまうようになる。そんな恐怖に駆られて空性や如来が説かれた法性の真実を自分なりに曲解しようとする。如来たちが説かれた真実など所詮事実ではない、虚構である。空性とはそんなものではなくて、こんなものである。身勝手な解釈を行い、空性や無我の真実ときちんと向き合おうとしない。浅はかな知性で考え出した想像上の空性や一部のある意味では正しそうに見える似非の部分的な空性が本当の空性であると錯覚しようとしてしまう。これらはすべて誤解であり、自己愛の為せる業であり、この空性に対する誤解はすべて、破滅へと私たちを導いてしまうものである。しかるに真実に向き合うことに耐えられない状態を耐え、この真実に向き合った時に見えて来る空性こそが、本当の救済であり、涅槃であると思えるように正しく検証可能な知性で正しく無我の真実を証解してゆかなければならないのである。この正しい無我の理解こそが般若波羅蜜であり、この般若波羅蜜だけが如来たちの母なのである。私たちは自分たちの心に如来となるための原因を生み出して、その上で一切衆生を救済できる如来の境位をこのいまの知性の延長線上に実現していかなければならないのである。

すべては母なる無限の衆生たちのため、無限の衆生を救済できる仏位を実現するためである。この菩提心と呼ばれる決意を決して捨てることなく、この菩提心という馬にのって、彼岸へと駆け抜けていかなくてはならない。私たちが菩提心の馬にのって彼岸へと、きちんと駆け抜けて、この旅を全うすることができますように、そんなジェ・ツォンカパの祈りを表現したものが、ここの願心の菩提心と布施・戒・忍辱・精進・禅定・智慧の六波羅蜜という行心の菩提心の修習に関する祈りの七偈である。ここに訳出した七偈をひとつ三分ずつ程度考えていくだけでも、たったの二十分程度で菩薩行のすべてに思いを寄せることができるだろう。この簡潔な詩頌を一偈ずつでも毎日考えていくことで、今週一週間で菩薩行のすべてをひと通り思索を途絶えることなく、継続できているということになる。一日のうちたった二十分でもよいし、五分間ずつでも一週間、本気で菩薩としての私たちの理想の姿を考えてみるのは決して悪いことではない。

明後日からはサカダワである。釈尊がこの菩提心や六波羅蜜を教えるためにこの地上にやってこられたその月である。ひとり静かに菩薩の思いに心を寄せるのに最適な月が明後日からまたはじまる。

Mañjuśrī Nāmasaṃgīti

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