いつの日か極めて甚深なる正法の真実を
思索できる知性で確信を見出せたその時は
現世への執着を断ち切った精進を手にして
寂静処を棲家とし正しく成就してゆけるように
善知識から聴聞をして、如来の言葉のすべては私たちが仏になるための教えとして有機的に心に響いて聞こえてくるようになる。彼らの言葉を手がかりに論理は実際に我々の周りにあるすべての現象を思索していけば、その言葉のリアリティを感じることができるようになり、彼らの言葉をひとつずつ手がかりにしなくても、煩悩を増大させるすべてのものが苦しみであり、それらのすべてが無常であり、常住で他のものに依らないものは何一つなく無我であり、無我の真実を直視できる力によってすべての煩悩を超克した涅槃は寂静である、ということが分かるようになる。はじめは論理的な推測に過ぎないが、その思いは次第に鮮明な思索の記憶となり、無我や無常の真実へと心を向けるだけで、その真実はより鮮やかに思えてくるようなり、さまざまな迷いや疑念を払拭できるようになる。ここまで聞思によって到達できる境地である。
これを繰り返していくことで、ある時に私たちは真実を何らの根拠に依らなくても明瞭に直観できるようになる。私たちが直視できている真実は、それまでのものとは明らかに違う経験なのであり、その経験は、このすべての闇を払拭していっている。この知が継続しているその限り、煩悩の根源にある無明は明らかに力を失っていくことが実感できるのであり、これが解脱道を現観しているという状態に他ならない。私たちはその智が途絶えることのないように継続するよう維持していき、たとえ三昧に入っておらず他の活動をしていても、すぐに再び三昧に入れるようにする。
この知の継続状態を作り出すことを「修」「修習」といい、「修習」とは対象への集中状態を維持している「止住の修習」と対象を分析して正しく観察している状態を維持しようとする「伺察の修習」との二つより成るものである。前者が究極の状態に至っているものを「止」(奢摩他)といい、この「止」を基盤としてさらに対象を正しく弁別できている精神状態を「観」(毘婆舎那)というが、この二つのどちらかで思所成の慧の判断力によって判断できている対象に対して、心がまったく揺らぐことなく直観を維持できている知性のことを「修所成の慧」と呼ぶ。
「修」「修習」それ自体は「止住」と「伺察」のいずれかの修習ことであるが、修習行為が目的としていることで分類するのならば、未だ得ていない功徳を新規に獲得しようとする修習・既に得ている功徳が損なわれていかないようにして増大させてゆく修習・罪業などを排除している状態を維持しようとする修習・罪障に対する直接の対抗手段となる対治の修習という四種類の修習がある。また修習を行なっている者で分類するのならば、声聞・独覚・菩薩の資糧道・加行道・見道・修道・無学道の三乗五道がある。
このうち菩薩無学道のような成道者の修習には、仏地を既に得ているので、未だ得ていない功徳を新規に獲得しようとする修習はないが、既に得ている功徳が損なわれいように増大させてゆく修習はあるので、利他のために無限の化身を化現させて、如来の不可思議なる融通無礙の活動も修習のひとつとして数えることができる。しかるにすべての三世の如来たちは修習することを終えた状態なのではなくて、間断なく真実を現観しつづけながら利他の活動をも無限に継続しつづけている状態であるのである。しかるに修習とは単に座禅を組んでいる時にだけ行なっているものでもないし、「修行に終わりがある」と考えることは「修習」ということが精神状態を間断なく維持しようとしている、ということに対する誤解によるものである、ということができるだろう。「有学・無学」といった身につけていかなければならない新規の功徳を獲得しようとしているのか、既に獲得してしまった状態なのかというものと「道」や「修習」とは異なっているのは注意しておく必要がある。
本偈では、前偈までのところにある聞所成の慧・思所成の慧を得た後には、現世利益などは一切省みることなく、延期したり、自身喪失したり、他のことにかまけることもない精進の力によって、人里から離れた喧騒のない寂静処へと赴いて、そこで如来の説かれている法性の真実を正しく成就していけますように、という祈りを述べているが、この成就する、ということは、建造物などを完成する・成就するというように、ある状態を維持しようとする修習を繰り返して継続していくことを通じて、大いなる成果ができあがっていく様子を表現したものである。
たとえば建築物を建築する場合でも、完成する前に途中で工事を中断してしまえば、建造物は完成できない。これと同じように真実を現観し、利他のための色身と法性を現観する法身との二つの身体より成る仏の境地もまた、現世利益などのつまらない雑事に追われて、途中で中断してしまえば、成就することはないのであり、成就した後にでも、ちょうど建造物を維持していかないのと同じように、常に修習を維持し、無限の母なる衆生のために活躍しなくてはならないのである。
本詩篇は善知識に師事するところまでが初めの善への祈りであり、前偈の思に関するものが中間の善への祈りであり、ここからが後の善への祈りとなる。これは菩薩道を歩み、仏の道を歩んでいくために、まずは道を歩むことから決して逸れることのないように、その歩みを継続できるための修行の土台に立てますようにという祈りを表現したものである。そして修行を行なっていくために、現世利益や輪廻での繁栄などに対する期待をすべて捨て、利他のために菩提道を邁進する意志を固め、その意志を継続するためのあらゆる精進をするための覚悟を決め、菩薩道を邁進して、成すべきことを実現していけるようにという精進を決して苦痛とも思わない決意を祈りとして表明しているものである。本偈は現世利益や自分のために行なっている修行や修習や、終わりがあるような修行というのは、仏教とはまるで関係のないものである、ということを教えているだけではなく、私たちが寂静処に居を構え、現世利益のことを省みることなく精進に努めるということの大切さをも教えてくれている。