聴聞した内容を四種の道理を手がかりに
昼も夜もその通り正しく分析していくと
大切なことに向き合えば思索できている
判断力がついて疑念も霽れていくように
ことばの記憶とは、如来や善知識の声をただ聴覚の現象として、彼らの声を耳に入れただけのものではない。彼らの言葉を、忘れないように書き記し、その言葉を大切にし、同じ時を生きる他の人々にも共有し、自分自身でもその言葉をひとりで反芻し、日々さまざまなことをしながらでも、その言葉を思い出して繰り返し彼らの言葉を受け取ろうとすることである。
彼らの言葉は単なる音として私たちが耳にしたものであるが、それはちょうど録音装置が再生機能をもたなければ役に立たないのと同じように、私たちは記憶した内容を想起して思い出すことができてはじめて記憶に刻んだということができる。しかるに善知識から仏法を聴聞する、ということはその言葉を忘れないように再現可能な形で記憶へと刻むことであり、最初は他人の言葉の記憶であるが、それが自分の言葉としても発することができるようになることが聴聞をするということである。聴いたものが自分の心のなかで聞こえてくるようにすること、これが聞法をするということである。
この言葉の記憶を繰り返していくことで、私たちはその言葉を手がかりに物事を判断できるようになる。何かの出来事に出会う時、如来や菩薩や善知識の言葉が心に響いてきて、自分自身の言葉ではないが、彼らの言葉を手がかりとして、正しい判断をすることができるようになる。すべての衆生は苦しんでいるので、彼らの苦しみを増やすようなことをするのはやめなさい、自分が思っていることのほとんどのことは自己中心的な視点から思っているだけのことが多いので、自分が絶対的に正しいと思うことはやめなさい、私たちが生きていくために大切にしなければならないことが何か、ということをそれらの言葉は教えてくれる。その言葉は音響現象を再現するための文字に記されている場合には、その文字列を読み、その言葉を同じように再現可能で記憶していくことにより、仏典を読むという行為は、仏典が読めている、という状態へと高めることができるようになる。
善知識に聞法するということは仏法という処方薬を名医である彼らからいただくことであり、その処方された薬を私たちは大切にし、日々しっかりと治療の目的で服薬していくことで、私たちの心に潜む深刻な病は少しずつ癒していくことができる。しかしながらそれらはあくまでも他人の言葉であり、他人が作ってくれた言葉に過ぎない。この病の治療のため十分な静養をしている時であれば、それらをきちんと服薬することができるだろうが、日々の雑事に追われたり、煩悩に支配されてしまって暮らしているのならば、さまざまな出来事が自分たちの視界を妨げて通り過ぎてゆくのであり、深刻な事態に直面したり忙殺されてしまっている時には、せっかく教えていただいた貴重な如来の言葉や菩薩たちの言葉が残念ながら魔の囁きや喧騒によってかき消されてしまい、自分たちの心に響かない状態になってしまうのである。他人の言葉はあくまでも他人の言葉であり、私たちの心の思いとは異なっている。このことが私たちの憂鬱の原因となるものである。
他人の言葉だけの記憶では、私たちは生きてはいけない。いくらこれから死ぬということを教えてもらっていても、自分がいま死につつあるということはなかなか実感できないのであり、とりあえず今日も明日もいまは死なないだろうと思ってしまう。すべての生き物は愛すべきものであると言われてみて、それを忘れないように心に反芻していても、自己愛を克服することはそんなに簡単ではない。悪しき者たちは角を生やせてやってはこないし、私たちを誘惑する報酬や栄誉に心が靡いてしまっていくものである。しかしながらそのような心の迷いが私たちを破滅へと導いていくことも同時に他人の言葉として私たちは知っているし、苦しみや困難へと私たちが向かっていることだけについては、何となくわたしたちは確信を抱いて生きることができているのである。彼らが教えてくれた通り私たちは困った状態になるのであり、そうならないためにどうしたらいいのか、と考えるのなら、そのための対策というものが必要になる、ということが分かるようになる。
他人から授かった言葉の記憶を定着させ、それを自分自身の思索や判断として確定させていくこと、これが「思」と呼ばれるものである。最初は自分たちが記憶している言葉とその意味を考えてゆく。彼らが教えてくれたひとつの表現は、さまざまなことに応用できる。さまざまな出来事は、彼らが教えてくれたひとつの表現によってまとめることができる。あるものはこういうものである、そのものはこういう働きをしており、このようなことが原因でこのようなことが起こる、このような性質があれば、このようなことが起こる、このようにいえる。そういったことを具体的にまずは彼らが教えてくれた言葉を手がかりに考えてみる。ある対象のもつ特定を考える法爾道理、そのものの他のものとの相対的な関係性を考える歓待道理、そのものの作用や機能とその効果や結果を考える所作道理、同じことを様々なものに適用して考える証成道理、この四種の道理とは、釈尊たちが私たちが自分たちでものを考えて分析するために教えてくれた推理の手がかりであり、如来たちの論理である。
最初は自分たちの心に鳴り響いている彼らの言葉にある論理を自分で再現しながらもの分析していく。最初はなかなか難しくて、昼も夜もずっと考えていなければ、彼らが本当に意図したことが何であり、どのような論理でそう教えてくださったのかもなかなか分からない。私たちの目の前には白紙の状態があるだけで、そこにどんな絵を描いたらよいのか、それは記憶を辿るしかない。しかし実際にその白紙に自分で絵を描こうとすると極めて難しいのである。美術館に行って名作を見ていたのとも違うし、音楽会や芝居に行き、名演奏家や名優の演技をただ観客として鑑賞していたのとは明らかに違っている。私たちは母なる衆生たちのために何か役にたつ絵を白紙の状態で描かないといけないのであり、さまざまな批評家や厳しい鑑賞眼をもっている観客の前で、しっかりと演奏をしたり、演技をしなくてはならないのである。舞台の上に立てば、これが本番なのであり、いまさら音符を忘れたとか、うまく演じることができない、といった言い訳をしている暇は全くない。この現実の本番に直面し、記憶に刻んできたその同じようなクオリティで、私たちはひとりで自分の力で判断していかなければならないのである。だからこそ、実際の本番に臨む前に、いまはしっかりと自分自身で練習し、鍛錬を積み重ねていないといけないのである。
はじめのうちは模倣でも仕方ない。白紙に自分の絵を描けるようになるまでには時間はかかるし、暗譜で名演奏ができるようになるためには時間がかかるのも仕方ない。しかし日々の鍛錬を怠らなければ、だんだんとコツが分かってくるものである。真っ白い紙を目の前にしても絶望することもないし、緊張で何もできなくなることもない。ここに描くべき絵は如来たちが教えてくれたあの絵なのであり、ここで歌うべき歌はあの歌なのである。練習をすればするほど、いざ白紙を目の前にして自分でやろうとした時に、躊躇することなくできるようになるものである。白い紙を見つめていればそこに自分が書くべき絵は心のなかで浮かんでくることができるようになり、自分自身の力でいざ舞台に立っていると思うのならば、どんな歌を歌い、どんな演技をするべきなのか、自然と分かってくるものである。練習を重ねれば重ねるほど、どこをどう工夫したらいいのかも分かるようになるのであり、判断力もつくし、確信も湧いてくるので、不安や心配や疑問も自然と解消できるようになる。そしてそのように自分で絵を描くこと、自分で演奏することを前提で他人の絵や音楽を鑑賞できるようになっていくと、ただ漠然と見ていた、聴いていたのとは違う側面もたくさん見えるようになるのである。
こうして私たちは絵を見ることができるようになり、音楽を聞くことができるようになり、如来たちの言葉も聴くことができるようになり、それを自分の心のなかでも鳴り響かせて、如来たちの思考や判断を自分たちの力でできるようになるのである。他人の言葉の記憶から、その言葉の発生源である他人の思考を手がかりとし、自分の思索を組み立ててゆく。その特訓を繰り返すことで、自分の思索は深まっていき、次第に「考えようとする」「思おうとする」という状態から「考えている」「思っている」という迷いのない状態へと昇華させてゆくことができる。これが「聞所成の慧」を「思所成の慧」へと進化させてゆくことである。「いつもすべての生き物のことを考えようとしている」みせかけだけの大乗者ではなく、「いつもすべての衆生のことを思っている」真の大乗者となるためには、この精神的な進化が私たちには求められているのであり、いつもそうありたいという願いが、このジェ・ツォンカパの祈りの主旨である。