2022.05.24
ཐོག་མཐའ་བར་དུ་དགེ་བའི་སྨོན་ལམ།

救出船の船長だからこそ

ジェ・ツォンカパ『初中後至善祈願』を読む・第6回
訳・文: 野村正次郎

清らかな志の巨大な帆を大きく広げて

弛むこともなき精進の順風を満面に受ける

聞思修のこの船を正しく運航させてゆく

生物たちを輪廻の海から救出できるように

11

聞法を重ね 殊勝な贈与を為してゆく

清浄な戒を護りつつ分析する智慧をもち

私の精神が少しでも発展してゆくその限り

外へと向かう慢心のすべてと離れるように

12

清浄な道理力で教説の真意をありのまま

分析する時にも他者ばかり頼ることもない

そんな賢者に寄り添って無限無辺の教説を

決して満足することもなく聞法できるように

13

私たちは再びここに人間として生まれてきて、壮大な使命を全うしなくてはならない。ここには巨大な海があり、この海では絶えず私たちの母が溺れている。彼女たちは海に溺れ、息絶えては、再びまたこの海に再生し、再び溺れていく。息もすることができず、自由に泳ぐこともできない。その母たちは無限に存在しつづけている。私たちはそんな溺れる彼女たちを救助するためにいまここに再び生を受けている。

私たちはいまここに再び生を受け、無数の彼女たちを救出しなければいけない、という使命をもった救助船の船長である。この船は聞思修によって涅槃寂静という彼岸へと行くための航海をしなければならず、私たちはできるだけ多くの溺れ苦しみ続けている母たちを救助しなくてはならない。そのために、まずはできるだけ多くの彼女たちを救出し、彼岸への航海を完遂できるため、巨大な帆を広げなければならない。広げる帆は巨大であればあるほどよいだろう。何故ならば救助船がやってきたことを彼女たちにも知らしめることができるからである。

この航海を進める動力源は、精進という風力である。常に衆生たちのためになることを喜びとしている、という私たちの心に私たちが思いさえすれば湧き上がって来るものである。石炭や石油のようにどこからか持ってきて、船のなかに備蓄する必要もない。危険な特殊な原子力のように、取り扱いに注意する必要もないし、決して廃棄物もできることもない。私たちの精進の風力は、救助していく乗客たちにとっては、風を切って走るための心地よい風であり、その風を巨大な帆のすべてで受け、この救助船を運行していく。私たちの航海の使命は、溺れている人たちの救助である。溺れている人がひとりでもいる限り、決して見捨てるわけにはいかない。もうこの船には定員が一杯なのであなたは救助できません、といったひどいことを言うわけにもいかない。常にこの船を修繕し、改造して定員も無限となるように、改修していかなくてはならない。それが聴聞を重ねていくということである。

聴聞を改修してこの私たちが運航していかなければならない救助船では、その救助しようとこの船に乗ってもらった遭難者たちに安心して乗っていてもらわなければならない。そのためには溺れて疲弊した体を癒し、体力が回復するための滋養となる食事も必要であろうし、傷ついたり止んだりした遭難者たちには、適切な治療も必要である。救助船の船長となった私たちは、実に忙しいし、智慧も必要である。遭難していた彼女たちの運命を握っているのは私たちであり、私たちは救助した人々に対して全責任を負っている。新しい遭難者を海上で発見すればすぐに救助しなければならないし、天候が悪く海が荒れてしまっていることもある。救出した遭難者たちが諍いを起こして問題が発生したりもする。そのたびごとに全責任を負っている私たち船長はすべての問題を解決し克服していかなくてはならない。だからこそ決して思い上がることもなく、自信喪失して挫折することもなく、この救助船の船長たる私たちはしっかりとしなければなららないのである。

さまざまな問題を乗り越えるためのすべての能力を私たちが既にもっているのか、といえばそうではない。私たちの知性が足りないことで、何か問題が解決し、状況が改善されたと思っても、またすぐに難題が襲いかかってくるだろう。だかこそ、同じように救助船を運航している賢い船長に連絡して、彼らが毎回どのように問題を解決していっているのか、その経験談をひとつずつ丁寧に教えてもらわなければならない。ひとつひとつの問題の事例にはひとつひとつの異なった状況がある。一隻一隻の救助船は似たようなことも起こってはいるが、細かく異なっている状況もかなりある。それらのすべては、私たちのこの救助船の運用の上で参考になる有益な情報である。私たちはそのような情報をできる限り多く集めていかなければならないのであり、ひとつひとつの状況に合わせて正しい判断を行ってきたほかの船長の判断の仕方についても教えてもらわなければ、無限の溺れる者たちを救出していくことなどできやしない。

だからこそ他の救難船の船長たちの意見や実績に関する情報をまずはなるべく多く入手し、それを参考にして、自分のこの船でも同じようなことをして問題を解決していなくてはならないのである。すべての判断は私たちに委ねられており、遭難者たちのすべての明るい未来は私たちがどうこの船を運航していくのか、ということにかかっている。どんなに辛いことがあろうとも、どんなに乗客が無作法であろうとも、私たちはこの船を故意に沈没させて、乗客たちを苦しみの海に放り出すわけにはいかないし、私たちはただの乗船客ではなく、船長なのである。この船は地獄行きではないし、沈没船ではない。この船はこの苦海を航海し、涅槃の彼岸へと進んでいくための船であり、そこに行けるかどうかは私たち次第なのである。さまざまな困難のある荒海を無事に航海し、彼岸へとたどり着くためには同じような巨大な救助船で彼岸へと辿りついた如来や菩薩たちのことばを信じ、その方角を決して見失わず、航海を進めていけることが必要であろう。私たちが再びここにいて、救助船の船長としての使命を実感する時、どんな暴風雨が降ろうとも、決してこの方角が間違っていないと祈る気持ちは自然に湧き上がってくるものである。善知識に正しく師事し、聞法を重ねていく時に私たちが抱くべき気持ちとはこの気持ちであり、ここの三偈はそのような責任感のある救助船の船長の気持ちをジェ・ツォンカパが表現したものであり、私たち大乗仏教を信奉する者の祈りとは、このようなものでなければならない。

巨大な帆を広げた救出船は海の希望である

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