梵行者となることができたのなら
甚深広大の大乗法のそのすべてを
母たちのため困難を厭うこともなく
無量の劫をかけて成就してゆかんことを
暇とゆとりのある人身を得ることができ、その上で、独身生活を生涯貫く決意をし、周囲の人たちの援助もあって、再び沙門として生きられるようになる。このこと自体は大変貴重なことではあり、釈尊や仏弟子たちと同じように乞食の遊行生活をし、少欲知足で修行に専心するようにする。修行に専心する、ということは四聖諦を知り、煩悩を克服する形で断じて解脱の境地を目指すことにある。死を超越した解脱の境地を過去世から為してきた悪業に左右されることもなく、すべての悲しみや苦しみを超越した涅槃の境地であり、これは寂静であり、決して苦しむこともなく、幸せや快楽が変化することもなく、六道輪廻に意に反して生まれてくることもない常楽の境地である。すべての仏教徒が目指しているのはこの状態であり、すべての修行者がこの境地を目標としてしなければならない。
しかし自分だけが輪廻から解脱して、涅槃寂静の境地を得たからといって、もしも他のすべての域とし生ける者たちが、輪廻に束縛され、苦しみに悶えたままであったらどうだろうか。涅槃寂静を目指して修行をしている時に、飲食の供物を捧げてくれた在家の者たちはそのままである。結跏趺坐をして坐禅三昧から起き上がった時に、私たちの周りに近寄ってくる小鳥たちや、いつも静かに草原で草をたべて軽やかに走り回っていた鹿たちや、小さな穴からでたり入ったりしていた兎たちもそのままである。自分を産んでくれた母親や兄弟や親戚、彼らも毎日煩悩と業の苦しみに悶えている。自分自身は幸い解脱することができたので、もう転生しない状態になってはいるかもしれないが、愛すべき他の者たちは何も変わることがない。彼らに対して幸せになりますように、苦しみませんように、そんなことを祈ることはできるが、だからといって彼らの苦しみを取り除いてあげることもできないし、自分は解脱しても彼らを幸せにすることができる訳ではない。涅槃を実現しても、ただ単に寂静なる境地に留まらざるを得ないのならば、自分が解脱することは、自分だけにしか役に立たないのであり、誰にも何の役にも立たない涅槃寂静の境地を目指すために、私たちは修行をはじめた訳ではないのである。ここに生まれて来られたことも、そして修行のために出家することができたのも、そして修行をして解脱を目指していけることも、自分ひとりでできることではない。そこには必ず他者の善意や期待などがあるのであり、私たちはこの愛すべき自分たちの周りにいる他者を見捨てて自分勝手に生きているのでは、生きている意味が果たしてあるといえるのだろうか。
このように考えていけば、戒体護持の出家者となったことだけで満足すべきではない。自分だけが解脱して、他のすべての愛すべき衆生たちを見捨ててしまう訳にいかない。むしろ自分のことなどどうでもよいのである。私たちが生きる意味は何か、他の人に役にたつことにしか見出せないのであり、他の人との関わりのなかで私たちは幸せを感じ、苦しみを感じ、悲しみや歓びもすべて他者との関わりのなかである。私たちが彼らに対して修行をしながらでもできること、それはまずこの修行のすべてが無限の衆生たちのためにやっているものとすることである。無限の衆生たちは、私たちが無限の過去からいまここにやってきている時に毎回お世話になった自分たちの母親であった者たちであり、すべての生に母親がいる。化生の衆生に生まれて来た時以外にもっている肉体のこの血も肉も母親から引き継いだものであり、生まれた後にも自分たちの生活や命のすべてを犠牲にして、私たちを育てるために、彼女たちは常に生きて来たのである。
もしもいま私たちが母親から引き継いだ血と肉がなくて、父親から引き継いだ骨と髄液だけしかないのならば、いったいどんな人間であっただろうか。それは骸骨人間であろう。骸骨人間は血も肉もなく、骨と皮だけである。生きているのか、ミイラなのか全く分からず、すこし動いてみるだけで、干からびた死体が動いたと思い、周囲の者は恐怖で慄く。骸骨人間で動こうとしても、しっかり大地に立つための足の肉もなく、ふらふらであり、死体やゾンビと間違われないように気の利いた言葉でも話そうと思うのにも、そもそも声帯が干からびているので声などでやしない。目鼻立ちや顔の肉もないので、にこにこと誰かに笑いかけることもできないし、骸骨人間は死に損ないの人間か、標本模型のようなものでしかない。人間らしいことは何一つできやしないし、もちろん出家や修行などもできやしない。骸骨人間でなくて、骨しかない魚であっても同じである。骨しかない魚は、もちろん刺身にもならないし、煮物にもならないし、ふりかけにもならず、ただダシにでもなって後は捨てるだけのあまり役に立たないものに過ぎない。生きていることの生きているらしさ、それは肉や血があることでもあり、体温があり、表情があり、他者との関わりで生きている実感を私たちがもてるのは、母親から継承した血と肉があるおかげなのであり、この人間らしさ、生物らしさを育て育んでくれているのは毎回この大恩のある母親なのである。そして私たちが愛すべき他者のそのすべては、私たちにとって直接関係なる大恩のある母親にほかならない。
母親が子どもたちに対して無償の愛を注ぐのと同様に、子供たちは母親に対して無償の報恩をしなくてはならない。一人前の大人になり、しっかりと社会でも活動できているのに、自分の母親が困っている時に何もしようともしない子供は単なる恩知らずである。恩知らずの者は、他人から信頼されることもないし、他人から愛されることもない。たとえ母親が年老いて認知症になろうとも、発狂しようとも、彼女たちがかつて私たちの保護者として活躍してくれたのと同じように、私たちは彼女たちの介護者として活動しなくてはならない。もちろんその活動は楽なものではないのは当然である。しかし彼女たちが私たちの保護者であった時も、決して楽ではなかったことを考えれば、母なる衆生たちの介護をするのを厭ってはならない。常に努力や工夫を怠らず、なるべくこの母なる衆生たちが快適に過ごせるように私たちは日々精進あるのみである。困難に直面して挫折しそうになっても、自分で乗り越えていかなくてはならないのであり、しばし母なる衆生たちの苦しみのことを忘れて休憩しようと思っても、休憩しすぎて怠け呆けていては、大変なことになるので要注意なのである。
母なる一切衆生は無限にいる。彼女たちのお世話をするのもまた終わりがないように見える大仕事である。彼女たちの介護をするためには、知性も必要であり、またさまざまなケースに合わせた業務がもとめられている。経験値が浅かったり、効率が悪かったり、さまざまな原因でうまくいかない場合ももちろんある。しかし時間をかけて無限の母なる衆生のために、私たちは大乗の教えを実践しようとしなければならいのであり、大乗の教えの目指すものは、この母なる衆生のため、決して涅槃の境地にひと時も止まろうとしない無住処涅槃の境地である。
母なる衆生という他者の恩恵で、ここに再び生まれて来て、母なる衆生という他者の恩恵を受けて、梵行の修行者となれたからには、決して自分だけが平安であればよいという寂静涅槃の境地を目指すのではなく、母なる衆生のためにひとときも活動をやめない無住処涅槃の境地を目指す菩薩勇者たらんとしなくてはならない。本偈は戒体護持の上で、常に愛する母たる衆生のための不屈の戦士たらんとする、ジェ・ツォンカパの決意を表明したものである。私たちもまた、愛すべきすべての母なる衆生のため、広大甚深な大乗の法を実践するための決して努力を怠ることがないようと常に祈りつづけなくてはならない。