これから生を繰り返すどんな時であろうとも
悪趣やそこへと邪に堕ちゆく者たちの姿にて
私は決して生まれて来ることのないように
いつも有暇具足の人身を得てゆけるように
これから先私たちは死んでいく。いまあるすべてのことをここに置いて、いまあるすべてのことを忘却の彼方へと追いやって、次の生へと進んでいく。
次の生はどんなものかは分からない。ここにこの古ぼけた肉体は朽ちてゆくだろうが、これまで心に刻んだ記憶と業を手がかりに次の肉体を受け取っていく。しかしまたその肉体が使い物にはならなくなり、また死を迎え、転生を続けてゆき、いまの私たちが持っているのと同じように、ここからここまでしかない、この小さな輪廻と呼ばれる小さな容れ物のなかに閉じ込められてゆく。
次にもまた別の身体に閉じ込められることは必然である。そして次の身体を、そしてその先の身体を豊富な種類のなかから自由に選ぶ権利はない。私たちが過去に積んできた深い宿業は自分たちが意識できないまま次の身体を選んでいる。昨日は人間であったが、目覚めてみたら、灼熱地獄のなかであり、いきなり熱湯をかけられたり、寒冷地獄で、凍え死にそうなのに凍えて死ぬこともできない地獄に生まれていたりする。
幸い生まれた境界は地獄ではなくても、何も食べられないし、何も飲むこともできず、何かを飲んだり食べたりすれば、それがすぐに口のなかで爆発するように燃えてゆき、それでも死ぬこともできない餓鬼に生まれて来ることもある。
あるいは海のなかに生まれてきたり、岩と岩との間の小さな虫に生まれてきたりする。草原に生まれてもすぐに虎に食べるのを避けなければならない動物もいて、常に他の動物を殺して食べないといけない動物になったりもする。幸いにも他の動物と殺し合いをしなくてもいい場合もあるだろうが、神々や人間の家畜として、鎖や紐で縛られて、小さな牢獄に閉じ込められて、死なないように食事だけが与えられ、強制労働をさせられてしまう動物に生まれて来てしまう場合もある。
地獄・餓鬼・畜生というこの三悪趣に生まれることは、そもそもそんな格好の身体で生まれているだけで圧倒的に不幸である。いくら心が綺麗であっても、毒虫のような格好をしていて、他人にも言葉で事情を説明できない限り、何ともし難い苦しみに喘がなくてはならない。そう思いながら、まずは地獄・餓鬼・畜生というこの三悪趣に生まれることがないように、そんな祈りをはじめにぼんやり思う。
しかしよく考えると、たとえ三悪趣へと生まれてこなくて人間や神々に生まれてきても、その次に再び三悪趣へと生まれていかなくてはならないような境涯に生まれたのでは無意味である。天国に生まれていても記憶喪失で意識不明の長寿の神々に生まれて来ても仕方がない。話しもすることもできず、再び如来たちのことばを聴いて理解できないような身体的な障害をもって生まれてきても仕方がない。人間や神々に生まれて来ても、その人生で誰も何をすべきか、何をやめるべきかを正しく教えてくれる仏教が存在しない場所に生まれても仕方がない。たとえ仏教が存在していても在家の男女や出家の男女といった仏教の為すべきことを実践し、忌み禁じるべきことを慎もうとしている人々が周囲に存在していない辺境の地に生まれていてはひとりだけで仏教を実践しなくてはならなくなり、あるいは周囲の者が、三宝や因果応報を信じているのは知性のない人間であるといった誤った考えに囚われている場合にも仏法の実践は困難なものとなってしまう。このような状態は、三悪趣には生まれてはいないけれども、気づかないまま三悪趣へといくための準備ばかりをしていることになり、せっかく人間に生まれてきても残念なことに何一つ善いことなどできやしない。だからこそ、私たちは単に人身を受けるだけでは不十分なのであり、自分自身がきちんと仏教を実践できる能力を備え、自分の周りの環境もその実践を可能にしてくれるような整った環境である、暇とゆとりがあり恵まれている「有暇具足の人身」へと、次の生も、そして次の生も生まれて来なくてはならないのである。
このように考えて、これから先、死んで次に生まれてくるときには、悪趣や悪趣へと堕ちていくような境涯には決して生まれたくはない、必ずや有暇具足の人身へと生まれたいと決意する。この決意は不特定多数の衆生たちのためであり、不特定多数の様々な善意を実現していくためのものである。先の偈は普遍的な祈りであったのに対して、この自分が有暇具足の人身のみに転生していけますようにという祈りは、この無限の衆生を済度のため、無限の目的を達成するために行っている具体的な祈りのはじまりにあるものである。
これまで無限の過去世を経たように、これからも無限の来世を私たちは迎えていく。明日も、朝あっても、来世もその次の未来に仏となれるその時まで、いまと同じように最高の環境を得て、最高の能力のあるこのかけがえのない生命を次の生命へと繋いでいきたい、こう心から願うのである。
いまの私たちの心と体はそれ自体で最高のものである。私たちの周りには最高の人々がいてくれる。いまは誰かの役にたつこともできないこんな私でも、少なくともいまのようなこんな貴重な機会を得ることができるのなら、いつか誰かの役にも立てるだろう。だから多くを望むわけでもなく、まずは最初に、少なくとも、明日も、明後日も、そして来世もまた来世も、いまと同じこの如意宝頌よりも貴重な機会を享受できることだけを希望とするのである。この先どんな惑星に生まれようとも、どんな国に生まれようとも、いまの人間の姿をと素晴らしき友人たちに囲まれた、これと同じような貴重な機会を必ずや継続でき、再びこんな体で大地に立てますように、と祈るのである。
輪廻転生は私たちの姿を様々な生物や人格へと変えていく。しかしながら、明日も、そして来世でも、またその来世でも、いつもと変わらないいまの素敵な姿で、いつもの素晴らしい仲間とまたここでいつものように集いましょう、そんな未来の集いにつなぐ、素晴らしき再会への希望が、本偈のジェ・ツォンカパの祈りである。