2022.05.15
ཐོག་མཐའ་བར་དུ་དགེ་བའི་སྨོན་ལམ།

不特定の無限のため、不特定の無限の祈りを

ジェ・ツォンカパ『初中後至善祈願』を読む・第1回
訳・文: 野村正次郎

namo guru mañjughoṣāya

十方のすべての勝者と勝子を礼拝せん

無辺の衆生を有から解脱させるため

無辺の祈願を純粋な意志で誓願する

欺かぬ三宝とその力を持ち給われる

仙人の力で真実の言葉が成就せんように

1

すべての人が幸せを望み、苦しみを望んでいない。自分たちの幸せの殆どは、他人との関わりから生まれてくる。誰とも交わらず、ひとり妄想を膨らませていても、人は行き詰まり、人と交わり過ぎても互いの思いが通じないこと、それによって自分が満たされないこと、そういったことで人はさらなる苦しみを味わっている。

新型感染症の蔓延防止を祈りつつ、当サイトでもさまざまな仏典の翻訳とそれを読むための手がかりになるような言葉を掲載してきた。しかし感染症の問題はいまだにこの世界で深刻な社会問題であり、さらに現在は戦争も発生し、社会は不安だけではなく、恐怖の混乱で私たちは迷走している。これは紛れもなく私たちの不善の業の結果であり、私たちの祈りが足りないから世界が不安定なままであることだけは間違いない。私たちの会も本来はインドに亡命されているチベットの善知識たちをお迎えして、ちいさな法話会を開催してきたのだが、それが今年また再開できればよいのだが、いますぐにはまだその時期でもない。今月末の31日からはサカダワで、私たちは以前に一緒に如来たちに毎日数時間の祈りを捧げるということがどういうことかを直接示してくださった方が今年も迎えることはできない。

しかし私たちにはいまできることもある。たとえば毎日これまでダライ・ラマ法王たちが教えてくださったことを思い起こすこと、そして彼らがしきりに説かれていた、実践する、ということをすることである。

彼らがいつも説かれていたのは、仏典をとにかく学びなさい、というこの一言に尽きるものである。同時に祈りだけでは世界は幸せにならない、ということであった。しかしいまは先生方から直接学ぶこともなかなかできないし、大成就者たちのような高い境地にもないので、いまはとりあえず、祈ることはできるだろう。

祈りというこの精神的営為が如何にあるべきなのか、私たちはかつてゲン・ロサンから華厳経の『普賢行願讃』を教えていただいた。ゲン・ロサンは毎年サカダワの期間は日本に来てくださり、説法をしてくださったが、いまはそれも叶わないので、これから数回に渡り、ゲルク派の宗祖ジェ・ツォンカパの『初中後至善祈願』というものを読んでいきたいと思う。

先日までは『水の教え』『弥勒悲讃』『参学の道標』を連載していたが、いまは偈文以外の部分は、一時非公開とし、もうすこし推敲を重ねておきたいと思う。(偈文の訳文はこちらから:『水の教え』『弥勒悲讃』)毎日の不吉なニュースや現在の社会の混乱のなか、このジェ・ツォンカパの『初中後至善祈願』というものは、大変役にたつものであると思われる。この祈願の詩篇は何かのはじまり、何かの途上、そして何かが終わりを迎えていく時、そのすべてが善であらんとすることを祈り、そのために諸仏に誓いをたてる文章である。デプン・ゴマン学堂の学校ではこの祈願文は二年生のクラスで暗誦しなければならないものであり、殆どのゲルク派の僧侶たちがこの祈願文を暗誦しているものである。私たちも毎日一偈ずつでも、彼らの祈りに小さな祈りを添えられるように、少しずつ読み進めていこう。

読み進めるにあたってはデプン大僧院の傑僧でクンケン・ジャムヤンシェーパの師僧でもあるチャンキャ・ガワン・チューデン(1642-1715)の解説とダライ・ラマ法王のかつてのご法話を元に内容を簡潔に再構成し、ひとつひとつの祈りの趣旨を見ていきたい。全部で三十偈ほどの短い詩篇であるので、今年のサカダワの期間のみなさまの手がかりとなればよいと思う。

礼拝の意味:祈りの証人となっていただくために

namo guru mañjughoṣāya

十方のすべての勝者と勝子を礼拝せん

最初のこれは、過去・現在・未来の三世に出現する、四方四維上下の十方の如来と菩薩たちのすべて対して、身口意の業の三門で敬意をこめて礼拝し、帰依し、私たちがこれから誓おうとする誓願の証人となってください、と要請するものである。

如来や菩薩たちを前にして祈りを捧げる、ということは、私たちが善なる意志によって、善なる方向性へと明確な希望をもち、その実現を心から望んでいる、ということを行動と言葉と気持ちのすべてで如来や菩薩たちに表明し、その私たちの表明・要望の事実に対して、彼らからのはたらきかけを期待するものである。たとえば私たちは役所に行って何かを要望したい場合には、まずは役所の役人に、こんにちはなどと軽く挨拶した上で、どうかお願いしますといってお願いをするのであり、役所の人はその要望を「受理しました」といつどう実現するか、といった回答はしなくても、要請があったという事実がそこに発生する。

これと同じようにここでは如来と菩薩や眷属たちを礼拝して、これから誓願しますので、その事実の証人となってください、という趣旨ではじめに礼拝をするのである。役所で役場の職員さんたちに何かをお願いする時でも、最初に丁寧に挨拶した方がよいし、最初から無礼にしていては、願いごとも叶わないかもしれないと思うだろう。だからここで如来たちにきちんと身口意で礼拝するのは、まずはとても大切なことであろう。

普遍的な祈願と真実の言葉

無辺の衆生を有から解脱させるため

無辺の祈願を純粋な意志で誓願する

欺かぬ三宝とその力を持ち給われる

仙人の力で真実の言葉が成就せんように

1

まず冒頭のこの偈は、具体的な誓願をする前にまずは今回の祈りの全体の趣旨とその自分の思いや希望が嘘偽りのない真実の言葉であること、そしてその真実の言葉を表明する、という事実で、普遍的な希望が実現しますようにということを表明する。

まず「無辺の衆生を有から解脱させるため」といって私たちが祈りを捧げるその目的が、人数の多少などを限った特定の衆生ではなく、無限の衆生、すべての生きとし生ける者たちを対象としたものであり、彼らのすべてが生まれ死んでゆくというこの有、すなわち身体と精神の合わさった生物としてここに存在する、その苦しみから逃れるためである、ということを表明している。これは要望が目的とする対象が不特定無限の多数であることを示すものである。

「無限の希望を純粋な意志で誓願する」と何か特別な希望を叶えてほしいという特定の要望ではなく、一切衆生に必要な無限のすべての要望を純粋な気持ちから行います、ということを表明し、その表明は、決してこういった要望を棄ておくようなことをなさらない、真実のみを行われる十方の如来菩薩のすべての方々の力によって、自分がいまここに言葉として発する誓いの言葉は、既成の事実となり、その既成の事実を作りだし、それを身口意をすべて統御した「仙人」たちである、如来たちに伝えたという真実・事実の力によって、その要望が実現しますように、ということを述べている。

このようにこの最初の偈では、普遍的な祈りを表しているものであり、大乗仏教の祈りのなかでまず最も大切なのが、祈願の内容の対象が特定の生物ではなく、無限の衆生であること、そして祈願の内容それ自体も特定の要望や希望ではなく、無限の希望や要望であるという点にある。これは大乗というものが「広大である」祈りや修行を行うものであり、その目指している目的も特定のものではなく、「不特定多数」であり、「無限」である、ということを大切にすることに由来している。しかるに大乗のすべての宗教行為が「無限の一切衆生のため」に行われる普遍的なものでなければならないのであり、同時にそれは、特定の何かに限った希望を実現するために行うのではなく、「過去・現在・未来にわたって衆生を利益する不特定多数で無限の希望」を目指しているものであるということになる。生物にはさまざまな種類の生物がいるのであり、如来たちが特定の生物は救わない、ということはそもそもあり得ないし、私たちもまずは普遍的な意志、そしてその相手となる普遍的な対象が無限であり、無辺であり、決して何か特定のものや数の制限などで偏ってはならないのである。

以上が、本詩篇の冒頭部分であり、ここでは無限の如来とその眷属を礼拝として、証人となっていただくよう要請し、まずは不特定多数で無限の衆生を利益するために、私たちの不特定多数で無限の要望をお聞きください、という祈りを捧げる、というのがこの冒頭部分の本旨である。祈りの歌を奏でるためには、まずは心の準備や調律をしておかなければならない。普遍的な祈りの土台を私たちはまずは自らつくりだし、その上で、さまざまな具体的な祈りを捧げていく、という祈りの作法をここでは教えてくれている。

ジェ・ツォンカパ

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