深遠な境地であると礼讃するだけで満足せずに
六人の荘厳 二人の最勝者 大成就者の全員を
各自の著書の審判に迎えながら顕密のすべてを
顕彰なされている第二の勝者のこの賢き流儀へと
心のすべてを一つにして全体を掴んでいきなさい いざ
宗教というのは総合的なものである。それは世間的な道徳倫理を説いているだけではなく、深淵なる思想や世界に対する科学的な態度も説いているものである。それは一面から見れば、物理学的、幾何学的な真理を説いているようでもあり、また別の側面から見れば、現象や言語の仕組みを説いている哲学的なものでもある。また別の側面から見れば、物語や詩歌のような文学的なものでもあり、人間のもつ根源的な習性や感情の動きなどを説いているものは、社会科学的なものでもある。しかし宗教というものの目的は、私たちが個人としてよりよい生活をするため、よりよい社会を形成するため、というひとつの大きな共通の目標をもっているものであり、すべての宗教がその大きな目標を実現するための方法論であるといっても過言ではないだろう。これは私たち一人一人の個人が大きな目標へと進んでいくために、複合的・総合的な人生を送っているのとちょうど同じなのである。
たとえば、私たちは朝目がさめてから何をするだろうか。朝食を終えて、外出してから何をするだろうか。一日を家で過ごす人もいるし、外出して過ごす人もいる。私たちの一日は、そのひとつひとつの用事をこなして過ごしている間にも、私たちがいろんな役割を果たしながら生きていることがわかる。朝起きて家の掃除をしている時は、私たちは清掃人である。外出して歩いている時は、通行人であり、少し空腹感を覚えて料理をつくりはじめたら料理人になる。家事をしている時は、家政婦のような仕事をしているのであり、どこかに行って何かをして報酬を得ている時は、職業専門家となっている。夕方になって家に帰れば、ただののんびり休んでいる人であるし、夜中に寝ている時は、ただごろごろ寝ている人である。その都度対外的な役割を担っているし、ただ自分の疲れを癒すために静かに過ごしている時もある。
ある日突然「今日からあなたは家の掃除以外の何もしてはいけません。あなたは清掃人なので家で寝てはいけません」と言われたら大変困ったことになる。そもそも家で快適に過ごすために、掃除をしているのであり、家で寝てはならなくて掃除しかしてはいけないのならば、買い物をするために通行人になることはできないし、料理も作れないし、そのまま家で掃除をしながら飢え死にして、孤独死の変死体となって警察のお世話になり、近隣住民に迷惑をかける以外の人生の終わり方をすることができなくなってしまう。
仏典を学習していくということも、このことと全く同じことが言える。私たちは最初に善知識に師事して、仏典の聴聞をはじめていくが、総合的・複合的に順序だてて学んでいくことが非常に大切である。何故ならば、私たちは総合的であり、複合的であるからなのである。
本偈で説かれているのは、龍樹(ナーガールジュナ)とその直弟子である聖提婆(アールヤデーヴァ)、無着(アサンガ)とその弟君である世親(ヴァスバンドウ)、世親の直弟子のひとりとされる陳那(ディグナーガ)とその注釈者である法称(ダルマキールテイ)、彼ら六人の「世界の荘厳」とされている人物の著したテキストを私たちはまずは学んでいく。この学習の基盤となるための戒律について詳しく教えている徳光(グナプラバ)と釈迦光(シャーキャプラバ)という「二人の最勝者」の著したテキスト、そして密教の八十の大成就者のたちの流儀を学んでゆく。彼らはそれぞれいま私たちが読むことができるような形で著作を遺しておられるのであり、それを紐解けばそこに彼らのメッセージが記されている。
さらにこれらのナーランダー僧院の大学者や成就者たちのテキストを、私たちひとりひとりの人間が仏教に入門して、如来の境位にいたるまで、どう学んでいったらよいのか、ということをジェ・ツォンカパは『菩提道次第論』と『秘密真言道次第論』という珠玉の名著で、矛盾なきひとつの総合的な体系として編纂されている。ジェ・ツォンカパは、「第二の勝者」として釈尊の顕密の教えを再構成した素晴らしい先生であると称賛されており、その著作は、本偈にもあるように、偉大なる賢者たちのテキストを彼らの意向を確かめながら書かれたものであるとして定評がある。僧院には如来の説かれた言葉と、その如来の言葉を理解するための数多くのインドの論書をまとめた大蔵経が如来の身体の拠り所である仏像とともに、如来の言葉の拠り所として安置され、ゲルク派の僧院であれば宗祖ジェ・ツォンカパの著作集は、その大蔵経を理解するための手がかりとして供養の対象として安置されている。しかしこれらのテキストは、あくまでも私たちが複合的・総合的な人間形成をしていくためのものであり、一部のテキストや思想だけのみでは、本来の目的とは異なったことになってしまうのである。どんなに偉大なるテキストが山のようにあろうとも、そしてどんなに一部のテキストの仔細に精通していたとしても、そのテキストに向き合う私たちが、それらのすべてを自分のものとして吸収し、そのすべてをひとつひとつ活用して、よりよい人間形成をしていくための糧にできなければ、せっかく素晴らしい先生がそれらを教えてくださっても、あまり役立っていない、ということになってしまうのである。
『根本中論』『宝行王正論』『廻諍論』『空七十頌』『正理六十頌』『ヴァイダルヤ論』、これら「中観の正理の六大著作群」と呼ばれる龍樹の著作を紐解けば、私たちは龍樹ご自身のメッセージに触れることができる。直弟子の聖提婆の『四百論』もまた、私たちが仏教の根本思想とは何か、ということを知る上で、それ以上の書物があるわけではない。無着(アサンガ)、世親(ヴァスバンドウ)は、釈尊から弥勒仏に伝わる広大行次第の開祖の二人であり、弥勒如来がアサンガに託した弥勒五法、すなわち『現観荘厳論』『大乗荘厳経論』『宝性論』『中辺分別論』『法法性分別論』とその注釈としてアサンガが記した五部よりなる『瑜伽師事論』『摂大乗論』『阿毘達磨集論』、ヴァスバンドゥが著した『大乗荘厳経論釈』『中辺分別論釈』『法法性分別論釈』『釈規論』『業成就論』『五蘊論』『唯識二十論』『唯識三十頌論』という八つの著作とを合わせると「弥勒関係二十法」と呼ばれる著作群を残してくれている。世親の直弟子のひとりである陳那(ディグナーガ)は、釈尊の説かれたすべての教えを現実の事実に即した論理によってどのように証明し、どのように推理し思索したらよいのか、ということを集大成した『集量論』を著してくれ、その意図を詳しく注釈した法称(ダルマキールテイ)の広釈である『量評釈』、それを纏めた中釈である『量決択』、さらに簡潔に纏めた略釈である『正理滴』、さらにそこから派生した『因滴』『関係考察』『論議規約』『他相続証明』という『集量論』を根本聖典とした七部の論理学書を著してくれている。徳光(グナプラバ)、釈迦光(シャーキャプラバ)の二人は、釈尊が定められた律から部派仏教での解釈、そして説一切有部の律の本質を明らかにし、さらに菩薩戒などについても、その基本的な考え方を明らかにされている。さらに龍樹は『菩提心論』や『五次第』において秘密集会の二次第を明らかにし、聖提婆は『行合集灯』を著され、月称(チャンドラキールティ)は『中論釈・明句論』『灯作明』『入中論』で龍樹・聖提婆の意向を明らかにされている。ジェ・ツォンカパも『菩提道次第論』『秘密真言道次第論』『中論釈・正理海』『入中論釈・密意解明』『了義未了義判別・善説心髄』『秘密集会教誡・五次第明灯』をはじめとする深淵なる名著を沢山残されている。
しかしこれらの文献も、私たちが仏教を総合的に学んでいくためのものである、という意識をもたず、それが自分のために複合的に役立つものであると意識しながら読んでいかければ、ただの過去の紙とインクでできた物質かその複製に過ぎないものに過ぎないことになってしまう。それらの素晴らしき「世界の荘厳」や「第二の勝者」が私たちに伝えようとしているメッセージも、ただの通りすがりの老人の話す世間話としてしか扱えなくなってしまうのである。しかるにこれらの著作が深淵なる思想を説いている、ということだけを称賛したり驚嘆したりするだけではなく、それらの全体が私たちに伝えようとしている伝言は何なのか、その伝言を聞いて私たちはどう人間形成していったらいいのか、このことをそれらの文献や教えからひとつひとつ掴み取り、一切衆生を利益できる如来の境地というこの複合的・総合的な境地に達するための糧にできるように、学習を進めていくことが極めて重要なのである。
仏教を学ぶということは、専門的な特別な知識を身につけて、不自由で偏屈な人間になるためではない。釈尊やその後継者が説かれた複合的・総合的な方法論により、まずは自分の人間形成をし、本当の意味での自由、本当の意味での幸せや穏やかな生を営むためのものである。このことを通じて周囲の社会をより平和でより穏やかで芳醇なものへと変えていくこと、これが仏教の最終目標であり、菩提心の目指しているものは、このことである。本偈は、如来や過去の先師たちが目指してきた、複合的・総合的な目標を決して見失わずに、一歩一歩、着実に進んでいきなさい、と教えている。