文殊菩薩が日々教化されたことにより
勝者の密意のすべてを現観し給われた
勝者ロサンすらも語られない新解釈は
夜中に妖怪が畑仕事をする如きものである
利益よりも損害が多いので堅く慎みなさい いざ
仏教を学ぶ、ということは、いまから2500年前にインドで釈尊が説かれた教えを学ぶ、ということである。その教えを龍樹や無着が解釈し、その解釈の伝統はチベットに伝わり、ゲルク派の僧院では宗祖ジェ・ツォンカパ・ロサンタクパの解釈を中心に学んでゆく。これらを学ぶということは古典を学ぶ、ということであり、古典を学ぶ上で重要なのは、古典を新解釈することではなく、古典を古典の伝統的な解釈に従って、まずはきちんと理解するということである。
ジェ・ツォンカパも若い時から求法の学徒として多くの転籍を聴聞していった。彼自身自分の著作で「多くを聴聞させていただいた比丘」と記していることもあり、その著作で記されているものは、すべて文殊菩薩が直接毎日のようにジェ・ツォンカパに教えたものであり、ジェ・ツォンカパがある時思い付きで独創的な新解釈を提示したと考えるべきではない、と伝統的に考えられている。ジェ・ツォンカパの述べていることは、釈尊が述べようとされたことを説明したものに過ぎないし、龍樹や無着がそれを解釈したものを忠実に説明しようとしたものである、とするのが伝統的な宗祖観である。ゲルク派の僧侶にとっては、それ以上のものは必要ないのであり、各僧院で使用されている問答の教科書も、あくまでもジェ・ツォンカパの教えに従って仏教を理解するためのものであって、何か新しい知識や特別なことを理解しようとするためのものではない。しかるに私たちにとって、大切なことは、如来が何を私たちに説かれようとしたのか、という問題を考えることなのであって、インドの誰々が仏教思想上にこういう新説を披露して、こういう人を批判した、とか、こういう人がこういう解釈をしているが、それに対してこういう解釈とこういう解釈に分かれたといったような、中身のない形式に当てはめて物事を考えることなのではない。過去の誰が何を言っていようとも、如来の言葉やジェ・ツォンカパのひとつの解釈を真摯に受け止めるのは、私たちなのであって、誰か他人が何を言っていることや、何かをしていようとも、私たち自身の煩悩が減って、一切衆生が幸せになることにつながるようなことは何もないのである。私たちは彼らが何を目指してそれを語っているのか、ということを真摯に受け止める必要があるのであり、まずは自分たちの精神を統御して、よりよい人間になることが、共通の課題であることを忘れてはならない。
如来の言葉を紐解き、宗祖の言葉に耳を傾け、伝統のなかに生きてきた素晴らしき先師たちの言葉に耳を傾けていくことは、すこしずつでも私たちが精神的に進化していこうとする営みのひとつである。他人がどうあろうとも、自分たちがいま在る状態にはさほど大きな影響はないのであり、自分の精神状態を棚上げして、仏教の文献にはこうこうあるが、これは現代社会に合わないのでこう解釈した方がいい、こういう部分は無視して、こういう部分だけ注目しようと考えるのは、単なる怠慢であり、思い上がりにほかならない。新しい解釈、新しく出てきた出版物、よりよい解釈が書いてある書籍、より有益な情報、というように求めていくことは、より価値のあるもの、より大量のもの、より自分の意に適ったもの、というものを飽くことなく求めていく、貪欲の本質的な姿勢にほかならない。仏教では貪欲によって支配され、さまざまな業を積み、さまざまな問題を引き起こしていくので、貪欲に支配されてはならない、と説いているが、その仏教を学ぶために、より新しい解釈、より多くの情報を、より価値のある情報、というように求めていくことは、煩悩を増大させることであり、そもそもその姿勢は仏教をまるで理解しようとしていないことにほかならない。
貪欲を断じるために必要なのは、少欲知足であり、如来の言葉にしろ、龍樹や無着の言葉にしろ、ジェ・ツォンカパの教えにしろ、既にそこに充分な形で存在しているのであり、私たちはそれを学ぶかどうかだけに過ぎないのである。如来の言葉は、大蔵経を紐解けば充分すぎるほどそこにあるのであり、それがサンスクリットやチベット語や漢文で記されていて、なかなか意味を理解するのが難しくても、まずは自分に与えられているその環境で、自分たちの心と向き合うことこそが、彼らすべての賢者たちが私たちに求めていることなのである。幸いなことに諸先輩方が、私たちが仏教と向き合うための素材は充分すぎるほど準備してくださっており、サンスクリットが分からなくても、チベット語が分からなくても、漢文訓読ができなくても、一切衆生に対する慈悲心や無我の理解に辿り着けないということはまったくない。菩提心や空性理解ができなくても、すくなくとも十善業道を実践することは、誰にでもできることであり、生き物を殺してはいけない、他人に無駄話ばかりしてはいけない、ということすらもきちんと実践できていないのなら、それよりも遥かに困難な唯識派の三性説を理解できるようになることはない。しかるに私たちはまずは宗祖の書かれたものを読むべきであり、日本人であれば、日本の宗祖たちが書かれた著作を紐解いて、これまでの仏教徒のすべての人々が伝統的に大切にしてきた経典や論書をひもといて、それを自分の精神の糧にすることが重要なのである。
新しい解釈、新しい情報、新しい書籍を追い求めていくということについて、本偈では、昼間は人間の顔をしている妖怪たちが夜中にこっそりと畑を耕しているように、実際に役立つ可能性よりも、いまある状態に多大な損害を与える可能性の方が大きいので慎むべきである、と説いている。如来の言葉を学ぶためには、器用で賢いことが重要なのではなく、愚直であっても真摯であり、偏見がなく、古典に対する畏敬の念をもち、それをしっかりと学びたいという固い意志が必要なのである。私たちはまだ仏教を学びはじめたばかりなのであり、この学習はこれから一切衆生を導ける如来の境地を実現するまで、三阿僧祇劫という長期化計画によって学んでゆくことである。
ちょうどインドのラダックから昨晩ゲンギャウが近況の写真が送ってくださった。ゲンギャウは五十歳を過ぎて日本に来られ、他の僧侶たちと一緒にひらがなとカタカナを学びはじめ、パソコンや携帯も使いはじめられた。最初に日本に来られた時から、すでにデプン・ゴマン学堂では重鎮であったので、若い僧侶たちと一緒に日本語をいまさら学ばなくてもいいですよ、と私たちも何度も申し上げたが、ゲンギャウは、あちこちのメモ用紙にひらがやとカタカナでいろんな日本語の単語をかきまくり、いつの間にか日本語も堪能になられた。ゲンギャウはいまラダックの僧院の大阿闍梨となられた、かつて「最後の秘境」とも言われたザンスカールでは、村の人々の心の拠り所であるが、いまもメールやメッセージを日本にまで送って下さる気さくな先生である。日本のような文明社会でふらふらと新しい時流に柔軟に順応して生きることよりも、多少不器用で、石頭で頑固者な田舎者であろうとも、不動の信仰心をもち、固い意志で努力を惜しまないで仏教を学んでいこうとする頑な姿勢こそが大切だということを本偈やゲンギャウは教えてくれている。