殊更に思想が汚れてしまったこの時代には
命題を提唱するだけで学者と驕った人々が
未曽有の新説と称し偽情報を流布している
それでも徳の少ない人の耳には入ってゆく
兎はチェルの音から逃げ出してはならない いざ
湖や池がたくさんある森があった。森の中には草食動物や肉食動物、さまざまな種類の鳥たちがたくさん一緒に暮らしていた。
ある日、兎が水を飲もうとした。すると突然「チェル」という大きな音が聞こえてきたので、怯えて息を切らしながら、急いでそこから逃げていった。
走って逃げていくと道すがら狐と出くわした。狐が一体何故兎に逃げているのかを尋ねると、兎は「とにかく早く逃げなきゃだめだよ。チェルが近づいてくるよ」と説明した。狐もなんだか恐ろしくなって一緒に逃げ出すことにした。
しばらくいくと道すがら狼がいた。狼が「二人はなんで逃げているの」と聞いたところ、「チェルがいるよ。チェルがいるよ。逃げろ。逃げろ」というので、狼も一緒になって逃げることにした。同じように猿、イノシシ、熊、ヒグマ、水牛、鹿、象、ヒョウ、雪豹、虎たちも同じように「チェルがいる。逃げろ、逃げろ」と大騒ぎして逃げていった。
肉食の動物も、草食の動物も、ぐちゃぐちゃに列になって逃げているのを見たライオンは「君たちが逃げなきゃいけない理由は一体どうしてだ」と聞いた。
するとみんなは口を揃えて「チェルがいるんだよ。チェルがいるんだよ」と話した。
ライオンは虎に「チェルっていうのはどんな動物で一体どこにいるんだい」と聞くと、虎は雪豹に同じことを聞いた。雪豹はヒョウに同じことを聞いた。ヒョウは象に同じことを聞いた。こうして順々に聞いていくと最後に兎が「その声は聞こえましたが、実際には見てはいません」と答えたのであった。
そこでライオンは、みんなを引き連れて、小さな池のほとりに調べるために行った。
するとそこには、水のなかに樹の枝が折れて落ちている以外には、何かがいる気配さえもなかった。ライオンは樹の枝が池の水面に落ちて、チェルという大きな音がしたのを、兎はきちんと何があったのかを調べもせずに怖がって逃げただけなのがわかった。
そこで動物たちのみんなは安心して、心穏やかに元自分のいた場所へと帰っていった。
賢き者は、真偽を調べて確かめる
愚か者は、喧騒に従って走り出す
池からチェルの音が聞こえてきて
猛獣や動物たちはほとんど逃げ出した
以上は、チベットの子供たちにとても人気な「チェルを怖がるうさぎ」の童話であり、このお話は、チベットの小学生の国語の教科書にも掲載され、とても有名なものである。グンタン・リンポチェの本偈はこれと同じことを諭しているものである。
釈尊がこの地上に出現なされたのは、五濁悪世の時代といい、見濁と呼ばれる誤った思想が横行している時代である。釈尊が出現されて、仏法を説かれたことは大変ありがたいことではあるが、釈尊が涅槃されて以降、この地上では仏法はどんどんと衰退していくことになっている。
仏教の衰退については釈尊自身が説かれたことでもあり、正法・像法・末法と仏法が衰退していくことは、日本でも有名でよく知られていることである。仏法が衰退していく流れに逆行するために、一時的に龍樹や無着が大乗の教えを復興し、私たちの過去の先師たちが偉大なる業績を残されてはいるものの、それを実践する人々は減少していき、戒体護持や六波羅蜜への精進といったものは、まるで過去の遺物で有形の文化財のように扱われていく。
近年では写経をする人も減っていき、写経もしていないのに納経をしたことにして、御朱印帳の御朱印を、まるでゲームでポイントを稼いだり、グレードアップするのと同じように集めたりする。釈尊が何度も説くことを躊躇って、自ら玉座をつくってそれを礼拝して、その教えが如何に稀有なるかを示した般若経でさえ、Tシャツの絵柄のように扱われたり、低頭慇懃に拝聴すべきその経文を、歌舞音曲が禁止されているはずの僧侶たちが、踊りとラップで披露して、それがまあまあヒットしたりしている。
大きな伽藍のある日本の寺院では、まるでキャンプ場のようにグランピングをする場所として、場所を提供することを求められたりしている。そこでは不殺生が推奨されているのにバーベキュー大会が開催され、不飲酒が推奨されているのに酒盛りがなされている。若い男女は煩悩を炸裂させ出会いをもとめて、そんな「癒しのフェス」に殺到する。
あるいはまた仏教の寺院では、生贄や苦行や我論を容認する外道のマントラが唱えられながら、ヨガ・キャンプなどが開催されたりする。座禅をし、本尊の気配を半眼で観想し、慈悲心を修習することはなく、ストレッチ体操をしながら、目を瞑って瞑想し、海や山やワイキキビーチでも想像して、マインドフルネスとやら何やらをやっている。誰か家族がなくなれば、何もわからないまま僧侶を招いて葬式をし、何故四十九日の法要をするのかも分からないまま、家族行事を家族の務めとしてただやりさえすればよい、という考え方は横行している。
これらのすべては決して悪ではない。多少なりとも善業を積んでいることだけは確かである。これらの違和感のある私たちの行動は、私たちの思想が汚れ切ってしまっていることの象徴であり、不幸にして私たちの愚かさを露呈していること以外の何もでもない。
こんな時代であるからこそ、何か新しめのことを工夫して提唱し、いままで誰も聞いたことのない未曽有の新学説ことを標榜することは可能である。日本語になかった仏典を翻訳したり、日本には伝わっていなかった宗教や思想、科学をどこか別のところからもってきて、面白可笑しく人々に語ったり、セミナーをやったりして商売をすることは実際に行われている。どうでもいい間違った学説であっても、人気がでれば、そのうち人々の間では定説や通説として扱われ、いまは釈尊も龍樹も無着もジェ・ツォンカパも誰も本人不在の状態となっているので、どんなに適当なことを言っても叱責されることはない。言論の自由があるので、間違ったことを語ることは、社会的な制裁を受けることもなく、ことば遊びや偏見の押し付けは、まるで天才的な偉業として拍手喝采でもて囃されることも多い。しかしこんなことは釈尊の時代にもあったことであり、釈尊のご親戚のデーヴァダッタがやった数々の悪行は、何かいいことをしようとしている時に全く問題が起こらない訳ではない、ということを教えている。
チェルの存在を流布したうさぎは、決して悪いわけではない。うさぎの問題は、ただチェルってものが何かを問いかけなかったことにある。彼も善意で狐に伝えたのであり、狐も猪に善意で伝えたのである。チェルを恐れて逃げ出した動物たちはみな、ただ徳が足りなかっただけであり、徳が足りないから、チェルが一体何かを調べて確かめようともしないわけである。チェルとは何か、何故動物たちはみんなそれを恐れて逃げ出そうとするのか、それを確かめようとしたのは、ただ恐れるものが何もない百獣の王であるライオンだけなのである。もちろんライオンですら、自分より強いチェルという猛獣がいるかもしれないことくらいは分かっているはずであろう。しかしほかの動物たちと違うのは、ライオンは動物たちみんなが怖がって大騒ぎしているチェルが一体何なのか、みんなで確かめようとしたことにある。そしてライオンのおかげで最終的にほかの動物たちはみんな心穏やかな生活に戻ることができたのである。
如来の教えは、獅子吼と呼ばれるし、如来や菩薩たちはライオンのような存在であると伝統的に喩えられている。彼らは衆生が恐怖している死とは何か、再生とは何か、転生して苦を味わうことは何故起こっているか、その原因を調べて確かめようとする。煩悩と悪業とによって苦しみが起こることを知り、煩悩と悪業を断ち切った状態が、心穏やかな安心した状態であることを知る。煩悩の根源が、チェルが存在しないのに存在していると思い込んでしまったのと同じように、私たちが考えている「私」というものが、私たちが思っている通りには存在していないのに、それが存在していると思っている我執にあることを如来たちは説いている。私たちはうさぎたちのように徳が少なく、この事実を理解できていないだけなのである。
私たちは得体のしれない魔物である死や煩悩の恐怖と対峙している。これらのものが一体何なのか、残念ながら分析する力もいまはないし、世間もまた所詮同じような程度である。しかし、これらは一体何なのか、何故私たちは死んでゆき、如来たちが説いた不死の涅槃寂静の境地とはどのようなことなのか、それを問いかけることを決してやめてはならない。うさぎもチェルのからくりを最初からきちんと調べて確かめようとすれば、大事になりはしなかったのである。それと同じように愚かな私たちは、何を恐れ、その恐怖を克服するためにはどうしたらいいのか、汚れ切った泥のなかに美しい花を咲かせる白蓮華のように出現された如来のことばに耳を傾けるべきである。聞くべきことばは如来が語ってくれているものであり、そのあたりの人の騒がしい話ではない。本偈はこのことを教えるものである。