真言聖典を聞思することが目指すものとは
すべての勝者が一同に意趣された定説たる
すべての悉地が三昧耶の遵守を根幹とする
このことに揺るぎない確信を築くためである
真の目的を決して見失うことがないように いざ
大地に根を張っている樹々は、誰にも気づかれはしないが、いつも根の部分でさまざまな栄養素や水分を吸収し、美しく力強い枝葉を茂らせて、やわらかい太陽光で呼吸しながら、色とりどりの花や果実を実らせていく。根本の部分は他人から見えることもないし、あまり人々に好かれたり、褒められたりするわけでもない。ただこの根の部分が枯れてしまえば、樹々は生起を失いただの枯れ木となる。枯れ木はそのまま腐敗してゆき、さらに他の植物の根から吸収される滋養となる。美しい花、紅葉、妙なる甘い風味をもつ果実たち、これらのすべての恵みは、根の部分から吸収されている。
私たちが仏典を師僧たちから講義していただき、その内容に思いに耽り、修行を進め、よりよき生を送ろうとする時に、最も重要な最低条件として、戒体護持、すなわち戒律をきちんと遵守するということが要求されている。戒律は、すべての功徳の基盤であり、私たちが修行をすることで身につけていくこのできるすべての良き性質は、私たちがきちんと戒律を守っていなければ、起こり得ないものである。どんな生き物も殺すまい、と心に誓い、殺生をしないようにしよう、という思いは、個人的なものであり、他人がそのようなことを考えているのかどうかは判らない。私たちが人々を傷つけるような虚言や暴言や無意味な話を口にだすことをやめようと常に心がけていても、それは他人から見てわかるようなものではない。それらは樹々の根幹部分のように他人からは見える状態ではない。ただそのような心がけこそが、ちょうど地上で枝葉や花として見せることができるものを支えているように、私たちが発する言葉がやさしく他者の耳に響くことばかどうかを左右しているのである。
別解脱戒であれば、来世に悪趣に生まれないために遵守するものである。菩薩戒であれば、一切衆生のために菩薩行に励み、その利他行によって他者の苦しみをすこしでも減らすために、遵守するものである。密教であれば、三昧耶戒であるが、これは本尊と阿闍梨から授けてもらう本尊瑜伽を行い、本尊を生起させることで降伏・息災・増益・敬愛という四種の特別な活動を速やかに行い、私たちが一切衆生利益のために仏としての身体を早急に実現することができるために行うものである。最勝なる悉地である仏の境地を実現するために、私たちは真言聖典を聞思してゆくことは、その内容を儀式的に実践し、通常の顕教での六波羅蜜の修習を加速させるために行うものであり、そのためにいまのこの自分と縁を結ばせてもらった、本尊との誓約を遵守することなしに、本尊やその眷属たちが修行者に加持を与えて、行を成満させることなどはできないのである。
別解脱戒や三昧耶戒を心の根幹に持ち続けるためには、必ずそれを遵守している阿闍梨から、釈尊から伝わってきた取り決めをこれ何世代も生まれ変わっても、仏位を成就するまで遵守します、と誓わなければならない。私たちはその誓いを立てた時、敬愛する阿闍梨たち、崇敬する本尊たちの面前で、自分の口からそれを誓います、と発言したはずなのである。衆生済度のためにそのような希少な誓いをたてたからこそ、如来たちは私たちの修行を見守り、必要な時に力を貸してくれるのであり、その修行をするために、まずは聖典を聴聞し、その内容に思索を深めていかなければならないのである。聖典を聴聞し、その内容を思索し、実際に観想などを行なっていく時にも、この最初の誓いを決して忘れないようにすることは極めて重要である。もしもその誓いを忘れないでいることができるのならば、ひとつひとつの経典の文字列は、諸仏や如来たちの種子で構成され、彼らのメッセージが光り輝く文字列として示されていることを明確に意識できるのである。行法などについての、細かいさまざまな難解な議論の数々も、私たちが誤った思考法や修行法に陥らないために、語りかけられているものであり、そのすべての目指しているものが衆生済度のためであることも分かるようになる。
秘密真言乗は、顕教に比べて速疾であるとされているが、これはちょうどすぐに成長する特殊な品種の樹々のようなものであろう。通常の樹々よりはるかに早く成長し、はるかに早く花を咲かせ、はるかに早く果実を実らせるような樹木のようなものなのであろう。だからこそその根本にあり、人々からは見えない部分は他の普通の樹々よりも、重要な役割をもっているのであり、他の普通の樹々よりも、遥かに即効性のある養分の吸収作用などをもっているのであろう。しかるに三昧耶戒の遵守は、密教の修行において一切の妥協が許されない根幹部分なのであり、このような特殊な根を地中に張りながら、成長し、華を咲かせて、壮大な果実を衆生たちにもたらしていくことが求められているのであろう。本偈は、どんな雨風でも倒れることのない、大木が地中深くまで根を張り巡らせるように、三昧耶の遵守こそが、衆生利益という果実を実らせることができることを教えている。