2022.04.27
བྱམས་པའི་བསྟོད་ཆེན་ཚངས་པའི་ཅོད་པན།

大粒の雨を降らせて

ジェ・ツォンカパ『弥勒仏への悲讃・梵天の宝冠』を読む・最終回
訳・文: 野村正次郎

このように行じて果を成就する時

三世の勝者の仏身と彼の仏国土と

眷属 活動 寿命 請願の一切を

ひとつに集めた一切のこの行法を

賢く巧みに行じ円満したその後に

永く思いを込めたこの衆生たちへ

正法の甘露で大粒の雨を降らせて

一刹那にして私が救いだすように

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天を含む一切世間の唯一の救済者・勝者・弥勒主への悲讃・梵天の宝冠、と題する本編は、多聞の遊行者、吉人ロサン・タクパがロダクのトンリの日出る隠棲処にて綴ったものである。善たらん哉。

昨年の十月から開始したこのジェ・ツォンカパの弥勒悲讃を読み進めてゆく連載も今回が最後である。最後のこの偈と跋文の意味するところは、それほど難解なものではない。

一切衆生のために菩提心を起こして、道位の六波羅蜜を究竟していった菩薩勇者は、一切相智を現証して仏位を獲得する。過去千仏・現在千仏・未来千仏のすべての如来たちは、いまの私たちの精神が究極な状態に至った法身と、いまの私たちの身体が発展して究極な状態に至っている色身の二身を成就する。如来となった私たちは一切衆生を苦しみから解放する境地へと導いていくために、さまざまな無限の道場をつくりだし、そのひとつひとつに私たちは化作によって身体を化現して、さまざまな眷属も同時に出現させることができるようになる。その活動は、ただ衆生を利益することを目的とし、衆生たちを資糧道・加行道・見道・修道・無学道へと導いてゆく活動であり、その活動は如来となった後には決して中断することもなく、停止することもない。如来の寿命は無量であり、如来の請願すなわち一切衆生を苦しみから解放するという祈りも無限で尽きることはない。

この広大無辺な様々な功徳をひとつの人格において複合的に体現した存在が仏なのであり、すべての行法は仏の境地を実現するために存在している。この行法を私たちは、それぞれ自分の能力や境涯に相応しい形で実践してゆき、その精度を高めてゆく。如来の境地を実現した後には、最初に菩提心を起こした三阿僧祇劫前から、ほぼ永遠にも似た長い時間の間、心にかけ、悲しみにより添おうとしてきた衆生のために漸く利他の活動ができるようになっているのである。だからこそ、如来の境地を実現した後に、実は私たちの無限の利他の活動ははじまるのであり、衆生に正法という死を超克する甘露の法の雨を土砂降りの豪雨のように降らせて、彼らを一瞬にして煩悩に支配されて苦しんでいる苦しみから救い出すことができるようにするのである。

虚空が尽きるまで、衆生が尽きるまで、私はここに居続けよう、これは菩薩や如来の祈りの根本であるが、大乗仏教が説いている如来観とは、それが目標地点であり、そこが最終的な休息の場というようなものではない。ちいさな原子のなかにも無限数の如来を示現させ、そこからすべての衆生たちに対して、梵天や獅子の声のような美しく、そして力強い声と旋律で、すべての空間と時間を正法の響きによって満たし続けてゆく、というこの如来の無限無窮の利他行は、成道のその瞬間から永遠という時を刻み続けてゆくものなのである。しかるに成道や成仏は、何か為すべき課題が終わる目標地点なのでは決してなく、そこから利他行の本番の幕開けとなる、通過点であると考えるのが望ましいのではないだろうか。

如来たちの説法はいまも響き渡っており、私たちのような深い罪業を抱え、煩悩に塗れている人間にはなかなか聞こえてこないように思われるが、しかし如来の久遠の説法が途切れることは決してなく、私たちが耳を澄ませ、眼をひらければ、そこに道は常に開かれてある。いまの時代においては、釈尊の発する声を直接聞くことはできなくても、それは大蔵経に言葉や文字として記されており、多くの善意の諸先輩たちのおかげで、いつでも私たちは釈尊のことばを自分で再現してそれを聴聞することができる。

釈尊の教えをいまは完璧には実践できなくても、釈尊の不肖の弟子たちを必ず自分の弟子として引き受けると誓った弥勒如来は、必ずこの地上に現在の第五番目の指導者として未来においてこの地上に出現し、私たちのような不肖の弟子たちですら、導いてくださることになっている。いま私たちにできることは、彼らの願い、彼らの祈りの根本である、すべての生きとしいけるものを平等に差別することなく幸せになるように愛し慈しみ、苦痛や困難や不条理に苦しんでいるすべての衆生たちがなるべくはやくその苦難を克服でき、苦しみを味わうことがないように、という志を同じくしようと努力することであろう。

弥勒仏の兜率浄土から降臨し説法するジェ・ツォンカパ

本詩篇は、文殊菩薩がその題名や構想や表現を示唆して、ジェ・ツォンカパが綴ったものであり、本詩篇はジェ・ツォンカパの「四大讃」のひとつとしてゲルク派では伝統的に非常に重視されてきた小品である。この詩篇を読む、ということは、彼らが伝えたいと思っている伝言の内容を、真摯に受け止めることであろう。この詩篇はジェ・ツォンカパが自分自身の不甲斐なさを実感し、悲痛の慟哭の声をあげる形で顧みながら、弥勒の境地へといまの同じ時代に住む釈尊の弟子たちが速やかに到達できることを希求する祈りを表現したものであるが、私たちがこれを読むということはこの祈りと同じような心情になるということであろう。

本詩篇の翻訳にあたってじゃ、ジェ・ツォンカパの他の著作やデプン・ゴマン学堂で学んだモンゴル人僧侶カルカ・ガワン・パルデンが本詩篇を菩提道次第と照合しながら解釈したものを基本的に参照した。仏教用語の説明的な文章については、主として『菩提道次第論』や『善説金蔓』をデプン・ゴマン学堂の教科書であるクンケン・ジャムヤンシェーパの『波羅蜜考究』での考察をもとに最低限だけ再構成してきた。しかしながら詩篇の翻訳にしても、また翻訳に添えてきたこれらの記事にしても取るに足るようなものでは全くないし、兜率天におられる弥勒仏やジェ・ツォンカパからお叱りを受けても仕方がない。

定家はかつて『明月記』に「世上乱逆、追討耳に満つと雖も、之を注せず。紅旗征戒、吾が事にあらず」と記しているが、いまもこの世界は常に破滅的であり、本連載をはじめてからのこの半年間、私たちはこの日本に住んでいても、毎日世界の乱逆したニュースばかりが喧騒をつくりだしてきた。世界は業によって作られているというが、暗いニュースや煩悩に満ち溢れた言説ばかりがもてはやされるこの状況も私たちが作り出してきたものなのであろう。そんないまのこの時代に、チベットの偉大な賢者が文殊菩薩から教えていただいた言葉を不器用な日本語にしたものを読んできてくださった読者のみなさんと、いつの日か弥勒如来の所化としてブッダガヤの地で再会できることを願いつつ、そしてこの読み方が如何に間違っているのか、ということを再びゴマン学堂の善知識たちに猛省せざる得ない日が来ることと願いながら、このジェ・ツォンカパの弥勒悲讃を鑑賞するこの連載はひとまずここで小休止とさせていただきたい。

最後にこの連載を読んできてくださったみなさまに心からの感謝を申し上げ、再びこの詩篇をみなさまと共に紐解く日のために冒頭部分を再掲しておこう。

ジェ・ツォンカパとその弟子が私財をすべて売り払い修復したジンチの弥勒仏像

namo śrī guru mañjughoṣāya

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慶友への大慈の涙で濡れている

爾然 暗黒の闇のすべてを焼き尽くす

絡み合う鎖の環は断ち切っている

爾然 強くここに大慈で繋がれている

静寂の河は偏って歪曲しはしない

爾然 他者へ自己より愛は溢れていく

妙に響く文殊師利へと私は跪かん

絶望のなき主人への讃歌を歌うために

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