2022.02.14
བྱམས་པའི་བསྟོད་ཆེན་ཚངས་པའི་ཅོད་པན།

闇を照らして輝く沙門の荘厳とは

ジェ・ツォンカパ『弥勒仏への悲讃・梵天の宝冠』を読む・第35回
訳・文: 野村正次郎

それを身にする者を賢者は歓喜し

導師には沙門の荘厳と讃えられる

菩薩行に従う順縁のそのすべてが

滞ることなく実現していくように

39

釈尊の教えに従い出家した梵行の沙門たち、すなわち沙弥・沙弥尼、式叉摩那、比丘、比丘尼たちは、在家の俗人が纏うような宝飾品を身につけて身を飾りたててはならない。彼らが身に着けるものは、「沙門の荘厳」と呼ばれる十七種のこの娑婆世界で最も美しい宝飾品であり、その宝飾品を見に纏うことが許された存在が沙門であるということである。その荘厳を纏う沙門の姿はこの娑婆世界で最も輝かしく、最も美しく、最も尊く、出家の沙門たちとはそのような姿で解脱と一切相智への境地を歩む者たちのことである。

「沙門の荘厳」については『瑜伽師事論』本地分声聞地・出離地(巻二十五)で十七種として説かれ、ジェ・ツォンカパもこれを「持戒の荘厳」と表現し、梵行の菩薩たちが身につけていくべき美徳であり、宝飾品であると述べている。出家した梵行の沙門たちのなかでも更に菩提心を起こした菩薩たちは、決して魔物たちの仕業に翻弄されず、常に如来の教えを追随し、如来の加持力による庇護を受け、菩薩行に邁進する。その足取りを十方の如来や菩薩や賢者たちは喜びとし、彼らが身につけている「沙門の荘厳」は釈尊が理想とした最も美しくある生き方、生の佇まいにほかならない。在家であれば、出家者がどこに向かおうとしているのか、ということを知るため、出家者であるのならば、そうあろうとするため、釈尊が最も美しい荘厳であるとする修行者たちが見に纏う荘厳とはどのようなものなのか、ということを知っておく必要がある。何故ならば如来たちが礼讃するこの生の態度こそ、これからの未来を照らし出す希望の光であるからである。以下、十七種の美しい「沙門の荘厳」とはどのようなものなのか、それを確認していこう。

(1)持戒で荘厳された沙門は、まず正しい信心をもっている(具足正信)。それは多くの仏説に対する絶大なる信頼、正しい理解、その内容に対する確信である。どんな時であっても如来の言葉通りの内容を実践したい、善業を積みたいという意欲に満ち、仏法に対する不動の信仰から、仏法を語る者に正しく奉仕し、師事し、供養する。彼らの信仰は決して揺らぐこともなく、自ら論理的に考えて、猜疑心に満ちた偏見を自ら捨てるのに十分な確信を抱いている。彼らの信仰は、仏法を説く者だけに捧げられるものではなく、仏法そのもの、そして戒体護持の生活をする梵行者に対しても等しく捧げられる。常に三宝を帰依処とし、それに携わる者たちには敬意をもち、低頭慇懃にして、自らの節度を保ち、不動の信仰を維持できる禅定力をもつ。これが浄信をもつ、という第一の沙門の荘厳である。

(2)次に持戒の荘厳を身に纏っている沙門は、決して他人に嘘偽りを語り騙すようなことをすることはない(無有諂曲)。彼らは常に正直であろうとし、釈尊や梵行者の前で、自分はこのように実践します、という誓いをたてた自分の言葉に責任をもち、如来たちに誓った限りは、命をかけてでも必ず実行しようとする。これが第二の沙門の荘厳である。

(3)また持戒の荘厳を身に纏っている沙門は、一般人に比べてはるかに病気になりにくく健康である(少諸疾病)。彼らは必要以上に食事を摂ることもないし、美食を求めることもない。彼らは健康を損なうような極度の寒暖を避け、規則正しい生活をし、健康を維持することが仏法を実践するためのことである、ということを十分に知り、自ら養生を正しく行える。これが第三の沙門の荘厳である。

(4)また持戒の荘厳を身に纏っている沙門は、どんな時にでも努力を怠ることはなく、常に善業へと精進する(性勤精進)。どんな小さなことでも、常に善なる方向へのための歩みであることを熟知し、そのための努力を惜しむことはない。面倒であると感じること、自分にはそんなことはできやしない、いまはまだやらず後でやろうといった怠慢な気持ちをすべて捨て切っている。彼らにとって善へと精進することは喜びに他ならず、決して絶望することもなく、自分を卑下することもない。同じように如来の教えへと励む梵行の修行者には正しく供養し決して怠ることはない。これが第四の沙門の荘厳である。

(5)また持戒の荘厳を身に纏っている沙門は、鋭い知性をもっている(成就妙慧)。人の話すことを真摯に聞き、話の内容をしっかりと記憶に留め、それをきちんと深く考えることができる。注意力が散漫になることなどなく、善悪の峻別を正しくする能力をもち、学んでゆくことのそのすべてを自らの知性でしっかりと理解し思考することができる。これが第五の沙門の荘厳である。

(6)また持戒の荘厳を身に纏っている沙門は、多くのものを欲することをしない(少欲)。常に欲望を少なくし、なおかつ自分は多くを望んでいないことを他人が分かってほしいなどといった承認欲求を追求することすらしない。これが第六の沙門の荘厳である。

(7)また持戒の荘厳を身に纏っている沙門は、足りるということを知っている(喜足・知足)。ここに生き、ここで修行するために、いま必要な最低限の物があるだけで、それを喜びとする。決して多くのものを望んだり、より良いものを望んだりすることはない。彼らにとっては必要最低限のものが足りていることそれ自体が幸いなことであり、それを喜びと感じることができ、それ以上を求めないことこそが真の幸福であることを感じることができる能力をもっている。これが第七の沙門の荘厳である。

(8)また持戒により荘厳された沙門は、生活に困窮することなどなく、安定した生活を送ることができる(易養)。彼らは独身者であるので、他者を扶養する必要はなく、自分一人分だけの生活を自分で責任をもって行うだけでよい。俗人と同じように家庭をもち、子育てをし、家族を養うための瑣末な出来事にとらわれることはない。ましてや使用人や奴隷を雇い、徒党を組み、派閥をつくり、自分の属する集団を他者の属する集団よりも優位にたたせるための競争をする必要はない。そんな彼らの生活を支えている施主たちは、必要以上にその沙門の生活の心配をする必要もなく、彼らを支えることを負担に感じないし、沙門の生活を支えることを喜びと感じさせてくれる。これが第八の沙門の荘厳である。

(9)また持戒の荘厳を纏う沙門は、生の満足感が高い(易満)。僅かなものしか所有していなくても、十分生きていけるのであり、たとえ粗末で悪しきものがあろうとも、それでも十分な満足な生を送ることができる。これが満足しやすい、という第九の沙門の荘厳である。

(10)また持戒の荘厳を纏う沙門は、乞食行脚に通じた功徳を備えている(具足成就杜多功德)。托鉢や施主から受け取るものは、その場しのぎのもので満足しており、人々が住みたくもないような場所に住むこともできるし、静かな樹の麓や屍体が転がっているような場所にでも住んでいても全く気にすることはない。与えられたものは、戒律に反するものではない限り食べることができるし、洞窟のような場所で寝泊まりをし、三衣一鉢以上の多くの所有物も必要とはしない。彼らの生活は極めて質素であり、通常普通の人間では耐えられないような生活でも、何ら気にしないで生活することができる。家居は漏らぬよう、食事は飢えぬ程で足りていることを十分に理解しているので、俗世間の価値観に翻弄されることもない。これが第十の沙門の荘厳である。

(11)また持戒の荘厳を纏う沙門は、立ち居振る舞いが凛として美しい(端嚴)。彼らが歩く姿は荘厳であり、行住坐臥のすべての立ち居振る舞いが、自ら律しているもの特有の緊張感をもった美しさをもっている。衣の着方、ものの扱い方にいたるまで、行儀作法のすべてが合理的で美しい。これが第十一の沙門の荘厳である。

(12)また持戒の荘厳を身につけている沙門たちは、必要な分量というものを正しく理解している(知量)。彼らは過度に求めることもなく、過少となり困窮することはない。托鉢に出れば、必要な分量だけ施主から供養していただき、それ以上を決して望むことはない。自らの節度を超えてしまい、放逸してしまうことなど決してないのである。これが第十二の沙門の荘厳である。

(13)また持戒の荘厳を身につけている沙門たちは、勝れた人物がもつべき尊い性質を備えている(具足成就賢善士法)。王族や貴族たちがもっているような高貴さ、上品さや優美さを備えており、その性質をもったそのまま乞食の行者として出家し行脚している。決して自らを自慢することもなく、他者を卑下して見下さない。如来の教えにのみ彼らは従うべきであることをしっており、常に如来の教えに従った行動・言動・思考のみを高潔に行いつづけている。これが第十三の沙門の荘厳である。

(14)また彼らは、内面が聡明で賢いということが、外側から見てもすぐに分かるような美しい佇まいをしている(具足成就聰慧者相)。愚かな者が愚かな格好をして行動し、下らない発言をしたりして、自らが無知蒙昧であることを外見上でも他人が分かることを表現しているのと同じように、彼らは聡明で、仏典に通じ、やるべきこととやめるべきことを正しく知っていることが、外見上誰でもすぐにわかるような姿をしている。これが第十四の沙門の荘厳である。

(15)また彼らは極めて忍耐強い(堪忍)。たとえ他者から暴力を振るわれようとも決して反撃することもなく、彼らはどんなに誹謗中傷され罵倒されても、気にもすることはないし、その危害を加えた者たちのことを悪く語ることもない。雨にさらされようと風に吹かれようと、凍えて死にそうになろうとも、熱い火に炙られそうになろうとも、決して菩提心を捨てることなどない。たとえ殺されそうになろうとも、決して反撃しない不動の忍耐力をもっている。これが第十五の沙門の荘厳である。

(16)また彼らは、どんなものに対しても常に愛情深く、常にやさしく思いやりがある(柔和)。施しを受けたものをひとりで独占することなどなく、法友たちと分かち合い、どんなものにもやさしく振る舞い、やさしく語りかけてくれる。相手がどんなものであろうとも、同じように深い愛情をもっており、それが決して揺るぐことはない。そのような彼らと過ごす法友は、心やすらかになり、自然にやさしい人間となれるような影響力をもっている。これが第十六の沙門の荘厳である。

(17)また彼らは、決して怒りを露わにすることもなく、はっきりとした面影をしており、微笑をもちながら話しかけ、心穏やかで明るく楽しい口調で話しかけてくれ、すべての悲しみや苦しみとは無縁であるかのような絶妙な性格をもっている(為性賢善)。彼らと共に過ごす時間はどんな人間にとっても楽しい時間であり、静謐で落ち着いた雰囲気で周囲の者たちは一瞬にして包み込まれてしまう。これが第十七の沙門の荘厳である。

以上が、「沙門」、すなわち善に励んでいる者たちが身につけている装飾であり、そのようなものを身につけている出家者たちが伝えているものが、すべての衆生を幸せにするための仏法にほかならない。彼らは毎月二度、無始以来積集してきた罪業を仏前にて懺悔し、常に自分たちの心と向き合って暮らしている。そのような荘厳をまとった彼らの側にいることは、かけがえのない時間であり、その善に励んでいる会衆が地上に存在していることは、この地上で最も価値があることであろう。

幸いなことに私たちはこのような沙門の荘厳をすべてまとったダライ・ラマ法王、そしてデプン・ゴマン学堂の僧侶の方々と触れ合う機会をもってきた。私たちは彼らのもっている無上の宝飾品というものを実際に眼にし、教えを聞くこともできてきた。現在は、感染症の問題があり、ほんの僅かばかり、彼らと共に過ごす時間は、休止状態にあるが、時が熟せばまたその時が来るであろう。釈尊の教えに従い、その姿に生を捧げている方々の佇まいは、美しく、そして寂静である。この寂静に触れることができるこの生は、無限の価値をもっている。

ジェ・ツォンカパも本偈で、物質的な順縁が整うように祈願をたてているのではなく、沙門の荘厳と讃えられる菩薩行が行われることへの順縁のすべてが滞りなく整うように、祈願をしている。このことが私たちの宝石のように輝かしい未来をもたらしてくれる方たちが一体誰なのか、ということを教えてくれているように思われてならない。

非常に難解な問答をしていても出家者の問答は常に笑顔を失わない

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