2022.02.13
བྱམས་པའི་བསྟོད་ཆེན་ཚངས་པའི་ཅོད་པན།

如来が防衛する難攻不落の砦

ジェ・ツォンカパ『弥勒仏への悲讃・梵天の宝冠』を読む・第34回
訳・文: 野村正次郎

牟尼王に仕え謹んで学ぶ時

広大な行の完遂を妨害する

悪劫へ導く悪魔の仕業による

障害の履歴さえ残らぬように

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菩薩行に障害が発生する事例について、弥勒の『現観荘厳論』所収の四十六事例のうちの前半の二十三例確認した。これは、直接妨害する逆縁の存在が加行の功徳の生起を阻む事例である。これについては以前の記事を参照していただきたい。(こちらから

菩薩行の実施に関し不備が起こる事例

『現観荘厳論』所収の四十六事例のうち後半の二十三の事例は逆縁が存在している訳ではないが、順縁が整わず功徳が生起し得ない状況となっているものであり、これには二十三種があり、これも「魔の仕業」と呼ばれるものである。

順縁が整っていない事例のすべては、説法者たる師と聞法者である弟子の何かに問題があり、順縁に不備がある状態となっているものであるが、これには、師の側に不備がある場合、弟子の側に不備がある場合、両者の準備状況が整っていなく不備がある場合の三通りに分類できる。

師の側に不備がある場合

師の側に不備がある場合には、次のようなものがある。たとえば弟子がいくら聴聞したいと思っていても、師が疲労していて説法したいと思えない場合がこれである。(事例1)弟子には学びたいという意欲があっても、師には教えたいという意欲が弟子の要望を満たすだけないので、伝法が行われずまた、共に菩薩行を実践することができない状況になる。この場合には弟子の側では準備ができているが、師の側では不備がある、ということなる。同様に、弟子が聴聞したい場所や時間が、師の都合に合っていない場合(事例2)、弟子は生活に困っていないが、師は生活に困っている場合(事例3)、弟子が乞食行脚の功徳等を身につけているのに、師が身につけていない場合(事例4)、弟子は善なる意思を充分にもっているのに、師にはそのような信心がない場合(事例5)、弟子はすべての所有物を施したいが、師は物惜しみしている場合(事例6)、弟子は貴重な宝物などを献上したいが、師は受け取りたくない場合(事例7)、弟子は簡潔な説明で充分なのに、師は詳細な説明を必要としている場合(事例8)、弟子は十二部教等をきちんと理解しているのに、師が理解ができていない場合(事例9)、弟子が六波羅蜜等を習得しているの、師が習得できていない場合(事例10)、弟子が成道への方便に通じているのに師が通じていない場合(事例11)、弟子は聴聞した内容の記憶を保持できる呪文を知っているのに、師が知らない場合(事例12)、弟子は経典を筆写したいのに、師がさせたくない場合(事例13)、弟子が性欲、害心、躁鬱状態、意識喪失、不信感といった五つの精神障害を克服しているのに、師にはそれがある場合(事例14)、といったものがある。

これらの事例は師の側に何らかの不備があり、弟子の要望を果たせない事例だが、このような状況であろうとも「私たち弟子には問題はないが、師には問題があるので、良くない師である」と考えるのは、あまりにも身勝手である。よき師に恵まれないのは、師の責任ではなく、自分の業が成熟していないことの結果である。『菩提道次第論』で説かれる師事作法でも詳しく述べられように、そもそも自分と功徳が同等かあるいは自分よりも優れた師に師事するのは、弟子としての務めのひとつであり、たとえ師の方で偶々不都合があろうとも、自分だけ菩薩として成長したいと考えるのはあまりにも身勝手である。そもそも仏教以外のことであれ、何かを学びたいと思う限り、それを教えて下さる方の都合や事情を充分考慮すべきであり、何か不都合や不備があったとしても、それを相手のせいにするべきではなく、自分自身の悪業の結果、順縁が整わないという魔の仕業の影響がでていると思い、この状況を打破するために、より一層功徳を積集することに精進しなくてはならないのである。

弟子の側に不備がある場合

弟子の側に不備があり、順縁が整わない場合には、弟子が地獄などの悪趣に行きたくない、享楽的な天国に行きたいという誤った意志をもっていることに起因しているものである。

まずは地獄などの苦しみの多い境涯について師がいくら説明しても、弟子が自分は強く恐れたり嫌悪感をもち、そんな境涯で利他行をするのは嫌だと思う場合(事例15)、菩薩行は実行不可能なので、菩薩行の功徳が生じることはない。師は地獄道や餓鬼道や畜生道の世界に行って一緒に利他行を行おうと師が進めても、弟子の側は、そんな辛い場所や恐ろしいところに行くのは勘弁して欲しい、いまはまだこの人間世界に留まっているので充分で、安心安全に菩薩行を行いたい、と都合のいい身勝手なことを考えているのである。しかしこんなことを考えているようでは、一切衆生を救済するために仏位を成就しようとして菩薩行を実践することなど出来ないのである。

また師が贅や欲を尽くした天界の様子を説明した時に、弟子は天界の享楽的な生活の部分だけに憧れ、はやく天界に転生したいとばかり思っている場合(事例16)がある。これも菩薩行が実践できなくなる事例のひとつである。欲界の神々たちは、私たちよりもはるかに多くの快楽を享受し、基本的に労働する必要もないし、常に面白可笑しく暮らすこともできる。寿命も決まっていて病気にもならないし、大きな宮殿に住んでおり、美しい歌舞音曲を永遠に美食の限りを尽くすことができる。しかし神々のように享楽的な生活を望んで天国に生まれたいという意識は、厭離すべき輪廻への再生を望む煩悩であり、天界のような偽りの快楽だけで満足し壊苦を快楽であると勘違いすることなく、菩薩行に邁進しなくてはならないのである。

地獄は嫌だが天国に行きたいという希望を弟子が捨て切れないのは、衆生を無差別に愛せないことに起因していることである。地獄の衆生は助けたくない、楽しそうな天界がよい、という衆生の「選り好み」であり、単なる「身勝手な考え」に過ぎないのである。しかるに、大乗者であらんとする者は、このような身勝手な思いこそが菩提心を破壊すと考えて、充分警戒しなくてはならないのである。

師弟の思いの不一致

また師弟のもつ方向性や状況により、菩薩行の実践が円滑に行われない場合がある。たとえば、師は孤独で静かな生活を好んでいるのに、弟子は集団生活を好み、独居を好んでいない場合(事例17)がある。また師はそれほど弟子の面倒見が良くはないのに、弟子はきめ細かく指導して欲しい場合(事例18)、師は生活用品など気にもしないのに、弟子は日用品すらも献上したいと思えない場合(事例19)、師が生命に危険が及ぶ場所に行って利他行を実践したいのに、弟子が乗り気でない場合(事例20)、師は乞食行脚が困難な貧困地域を訪れたいのに、弟子は乗り気でない場合(事例21)、師は強奪事件が多発している地域に行きたいのに、弟子は乗り気でない場合(事例22)、師匠が托鉢する時に供養をする施主に好意をもっているのに、弟子がその施主のことを好きになれない場合(事例23)といったものがある。これらの場合には、必ずしも弟子が師の望み通りのことをしたいと思えない理由が不純なものかどうかなど状況に応じて変わるものであり、一概に弟子の側に問題があるとも言い難いケースもあるので、菩薩行が行われない直接の原因としては、師弟の方向性や嗜好が異なっていることから両者にすれ違いが生じている、ということのみで、事例として数えられているのであろう。

魔物たちの正体

以上、菩薩行の逆縁がある二十三例、順縁が整わない二十三例を見てきたが、これらのすべてが「魔物の仕業」「魔の活動」と呼ばれるものである。それではこの魔物とは一体その正体は何であろうか。

仏教において「魔物」とは、死魔・煩悩魔・天子魔・蘊魔の四魔のことである。具体的には、私たち自身が死んでしまうことそれ自体(死魔)、自己愛、それを中心とする過剰な欲望や執着、嫌悪感や憎悪(煩悩魔)、善なる活動を妨害し破壊する勢力である他化自在天の神々(天子魔)、色受想行識などの五蘊そのもの、すなわち自身の肉体と精神そのもの(蘊魔)、これらが魔物の正体である。この四魔を駆逐した者を「敵を倒したもの」(阿羅漢)・「魔物の軍勢に勝利したもの」(勝者)と呼び、釈尊が成道される直前に降魔としてその事績を示されたのも、この死魔・煩悩魔・天子魔・蘊魔を駆逐されたことを意味している。(詳細はこちらから

私たちは通常「魔物」という場合には、自分たち人間とは別な生き物のように考えがちでああるが、実際に四魔のうち私たち以外の生物のことを意味しているのは、天子魔だけに過ぎない。天子魔は私たちのような人間や神々が善を実践するのを阻む他化自在天の神々たちのことであるが、彼らは常に神々たちと戦闘を繰り返し、菩薩の仏位成就を妨害している生物である。天子魔たちは、ここでも紹介されているように、如来の言葉への不信感を扇動し修行者を分断させ、偽物の経典を偽造してそれを説き、如来の姿に偽装して出現して煩悩を増大させるという前の記事で説明した三種類の破壊活動をなしている。彼らは所属としては天界の衆生であるが、実際に行っている行為は、天とも言えないような行為しか行わないので「阿修羅」として分類される者たちである。しかし阿修羅のように私たちが通常創造しているような所謂「魔物らしい活動」をしている事例は、ここの四十六事例の魔物の活動のうち、たったの三例に過ぎず、それは「魔物たちの仕業」全体の約6.5%に過ぎず、彼らの活動は「私たち以外の魔物」であるが、そして残りの90%以上の魔物の仕業の主体は私たち自身であるということになる。

四種の魔物のうちの一種類のみが「魔物らしい魔物」なのであり、「魔物のような活動」のうちの5%だけが、彼らの仕業ということになる。しかるに、つまり私たちは「邪魔された」「邪魔が入った」と通常考えているほとんどの場合において、魔物の正体は私たち自身なのであり、私たちは自分たちに問題があるのにも関わらず、それを「魔物のせいである」とあたかも自分のせいではなく、他者のせいであるかのように偽装工作を行っているということになる。つまりほどんど何かうまくいかないことがある場合には、魔物のせいに私たちはしているが、その殆どの場合が私たちの単なる被害妄想に過ぎないということには注意しておかなくてはならないだろう。

また魔物たちの破壊活動・妨害行為は、六波羅蜜と四摂事よりなる菩薩行を阻害するが、より具体的には菩薩行の実践法たる、所謂「十種法行」が阻害されているケースを想定する方が分かりやすい。

「十種法行」とは(1)如来の言葉を文字で記述すること、(2)供養を行うこと、(3)他の衆生に施しをすること、(4)如来の言葉を他者が唱えているものに耳を傾けること、(5)如来の言葉を自ら自分の口から出して読誦すること、(6)如来の言葉を心に留めて暗記すること、(7)如来の言葉を他人に声に出して読んで聞かせること、(8)如来の言葉を日常的に唱えて読誦すること、(9)如来の言葉に思いを巡らせて思索すること、(10)如来の言葉が説いている内容を実際に自ら実践すること、というこの十種類の活動であり、写経をする、仏前にお供えをする、恵まれない者に施しをする、聖典の講義を聴聞する、聖典を自分で音読する、聖典を暗記する、聖典を他人に朗読する、聖典を自分で暗誦する、聖典の内容に思いを寄せて考える、聖典で説かれている布施や慈悲などを実践するという通常私たち大乗の仏教徒として行なっている活動のことである。

こうした私たちが日常的に行なっている活動を魔行は逆縁となり阻み、順縁の不備の状態をつくりだしているので、四魔・六波羅蜜・四摂事・十種法行をそれぞれ自分で組み合わせて想定していくことで、具体的な魔物の活動をよりはっきりと理解してゆくことができる。

たとえば、前回の記事にあったように、身体的に不作法で、如来の言葉に対する敬意ももたず、商売敵から抜きん出て、現世利益として商売繁盛のためという不純な動機で写経をし、貧しい者に寄付行為をする人もいるだろう。しかしそれらは菩薩行ではなく、「魔物たちの仕業」に他ならず、菩薩行の功徳、すなわち写経や寄附の効果がまるでなくなってしまっても仕方がない、ということになる。同様に煩悩で極楽浄土という仏国土と神々たちの享楽的な世界とを混同して、来世では必ず天国に生まれたいと思い、必死で念仏などをしても、「魔物たちの仕業」によって阻害され、念仏していることにならないことになる。

このように多岐にわたる魔物たちの活動は私たち自身を破壊するが、まずはこの魔物の正体とその活動状況をよく振り返って考えていくことで、自分自身に潜む魔物たちから自分自身のよい性質をきちんと守り、正しい方向へと向かっていくことができるようになるのである。邪魔が入る、魔物に取り憑かれる、本意ではないが都合が悪くなった、などといって善業を実践するのを怠ろうとする私たち自身のなかの魔物の声には、決して耳を傾けるべきではなく、私たちは魔物の声を聞かず、心に留めてきた如来の声に耳を澄ましていかなくてはならないのであろう。

魔物たちへの対処法

多くの魔物たちが出現し、その魔物たちが様々な破壊活動を企てていることは、異常事態が一時的に発生しているのではなく、極めて自然な現象である。というのも、私たちが実践しようとしている菩薩行の中心は、般若波羅蜜にあり、この般若波羅蜜こそが如来の母と呼ばれる、一切相智を生み出す直接原因であるからである。般若経には、これを「貴重な宝石には敵が多い」という譬喩を使って説明しているが、高価で貴重な品があれば、その価値が高ければ高いほど、それを盗んでしまおうという強盗の勢力が拡大していく、というのは当然なのである。しかるに高価な貴重品は厳重に管理して、盗難防止などの対策をしないといけないように、私たちは菩薩行を厳重に管理して、魔業に対する十分な対策をしていかなくてはならない。

貴重品が高価であれば、それに比例して必要な警備員も増員され、より厳重な警備体制が構築されていくのと同様に、菩薩行を実践しようとする者のその営為は貴重であるからこそ、菩薩行を実践しようとしている私たちを十方の如来や菩薩などは、より力を入れて私たちの菩薩行を守ろうとはたらきかけてくれるのであり、私たちを魔物から守ってくれる如来や菩薩の人数やその活動は、私たちがより純粋に菩薩行を実践しようとすればするほど、増強されていくものである。

これは子供がたくさんいる母親が病気なった場合には、大勢の子供たちが団結して母親の看病をして、一日もはやく母親が病気から治るように手助けをするのと同じようなことである、と般若経で説明されているが、私たちが菩薩行を行おうとした時に遭遇する、私たちの善業を阻害する魔物たちを退けて、一日もはやく私たちが菩薩行を行おうとするために、多くの如来や菩薩たちが助けてくれる、というのもこの原理に基づくものである。しかるに魔物たちに取り憑かれないようにする最強の対処法とは、私たちが純粋に菩薩行を実践する、というただこのことだけにかかっているのであり、この菩薩行の実践も、私たちが孤独にひとりで魔物たちと戦いながらしている訳でもなく、私たちが知らず知らずの間、無意識に如来たちの加護の力が私たちに働いてくれている、ということを感じていくことが大切であろう。ジェ・ツォンカパも『善説金蔓』で魔物たちの仕業とその対処法を締め括る箇所で引用する『宝徳蔵般若経』では次のように説かれている。

四種の理由によって菩薩とは賢く力強い。

四種の魔物たちでさえ難攻で不落である。

常に空に住しており、決して有情を見限らず、

言葉を偽らず実行し、如来に加持されている。

私たちは、自分たちの心に潜む魔物たちに翻弄されやすい存在である。しかし、菩薩たらんとする限り、常に無我の理解に励まんとし、衆生に対して無差別な愛情を注ぎつづけ、如来の教え通りに常に実践し、純粋なる動機を持ち続けている限り、魔物でさえ私たちの菩薩行は難攻不落の砦となる。

これから先、如何なる場所に如何なる生を受けようとも、一瞬すらも魔が差してしまう履歴すらも残らないように、これから先の菩薩の道のりを全うできますように、そんな祈りを般若経の四十六種の魔事を注釈した弥勒如来に捧げているのが、本偈の主旨であり、本偈は私たちのもつ不動の決意こそが最大の防衛手段であることを教えている、と思われる。

釈尊が成道するにあたりありとあらゆる魔物たちの邪魔が入ったくらゐなので、私たちにも邪魔が入るのは当然だろう
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