2022.01.30
བྱམས་པའི་བསྟོད་ཆེན་ཚངས་པའི་ཅོད་པན།

破滅をもたらす魔物たちの仕業

ジェ・ツォンカパ『弥勒仏への悲讃・梵天の宝冠』を読む・第33回
訳・文: 野村正次郎

牟尼王に仕え謹んで学ぶ時

広大な行の完遂を妨害する

悪劫へ導く悪魔の仕業による

障害の履歴さえ残らぬように

38

菩薩たらんとする者は、どんな時も如来の教法を決して見失うべきではない。常に如来の教法こそ私たちが歩むべき一切相智へと導く道であり、如来の示したこの道だけを常に畏敬の抱きつつ、泰然と歩んでゆかなくてはならない。この旅路は長く、三阿僧祇劫という長期間の長旅だが、私たちを待ち構えている魔物たちの誘惑に負け、魔物たちの棲家へと行く訳にもいかない。

菩薩道を一心不乱に歩んでゆくためには、菩薩道を妨げてしまう悪魔たちがどんな妨害活動や破壊活動で私たちを欺こうとしてくるのか、という危険情報を事前に知っておく必要がある。事前に危険を予測し、充分な準備が出来ているのならば、いざ秘密裏に近寄ってくる魔物たちがこっそりと忍び込んでこようとしても、きちんとした対処ができるようになるのであり、逆に障害が発生しそうになっているのにも関わらず気づかないままにしておけば、問題は深刻化し、魔物たちに支配され、魔物たちの意図した通りに、菩薩の道ではなく、破滅の道と向かってしまうことになる。魔物たちというものは、そもそも自分たちが魔物であることが明らかに分かるように私たちに近づいてくるような者たちではなく、私たちが魔物たちの活動だと気づかないように巧妙に近づいてきて、せっかくはじめた善いことをすべて台無しにしてしまうところが実に厄介なのである。だからこそ、菩薩行を実践しようとする者は、菩薩行とはどのような良い効果をもたらすものなのか、その効果がもたらされないように邪魔をしている魔物たちの活動とは如何なるものなのか、ということを理解することは、広大なる菩薩行を完遂するためには必要不可欠の課題であるということができる。以下、具体的にどのように魔物たちが私たちに近づいてきて悪影響を与えていくのか、ということについて見て行こう。

菩薩行に対する破壊活動の発生状況

まずは、魔物たちによる悪影響が現実に直接及んでおり、菩薩行を阻んでいる事例から考えていこう。

A. 教法の理解に対する障害の事例

私たちが菩提心を起こした後、菩薩道をきちんと歩んでいくためには、菩薩道とは如何なるものなのかということを正しく理解しなくてはならない。しかし如来の活動が行動であるのに対応して、菩薩行もまた広大なものであり、菩薩道とはどのようなものなのかをきちんと理解するのは、必ずしも容易なことではない。

菩薩行をきちんと理解するのには大変な時間が必要なのであり、学校で世間を生きる知識を学ぶように数年間で菩薩行を理解することなど到底できやしない。菩薩行とは十方の如来たちの教えの中心であり、如来たちの真意を理解することは、何度も転生を繰り返し、大変な困難を乗り越えてはじめて可能となるものである。

しかし、大変な苦労をして、何となくでも菩薩行とは何かを理解できるようになった時に疲労困憊し、その菩薩行を今度は実践して、自らが菩薩としてきちんと活動していく気力すら残っていなかったり(事例1)、もうこの理解で充分であると満足してしまう(事例2)可能性がある。

前者の場合には、如来の真意を理解するのに挫折しているのであり、後者の場合には自分の劣悪な知性により、菩薩行をさらに深く学ぼうという意欲を喪失している。この二つの事例は、自分の知性に対する過信と焦燥感から生まれてくる感情であり、このような思いをもっている限り、如来の密意をきちんと理解していくことができなくなってしまう。

B. 身口意の三業における障害の事例

そのような挫折感ももたずに、菩薩行を深く追求しようという気持ちを維持できていたとしても、如来の密意を理解するためには、自分ひとりでは出来る訳ではなく、如来の教えを正しく伝えてくれている正しい善知識に正しい作法で師事しなくてはならない。しかし普段から煩悩にまみれている私たちは、静かに落ち着いて正しく聞法をしつづけることにも慣れてはないので、辛気臭いつまらない説法だと思って退屈し眠くなって欠伸がこぼれたり、深刻で真面目な話を聞き続けることに耐えかね、周囲の人気をとるために笑ってみたり、場を盛り上げるためどうでもよい奇怪な質問をしたりして、礼儀正しく正しい作法で聞法できなくなってしまう。(事例3)

あるいはまた貴重な法座に参列していながらも、常に心に自分の個人的な仕事、家族、友人や知人といった仏法よりも重要ではないことばかり気を取られてしまう。菩薩行の実践よりも重要な用事はないにも関わらず、とりあえず仏教の実践は後にして、いまは急いでこの場を離れ、用事を片付けなければいけないと思ってしまう。これは法座に臨んでいる時に、仏法に反したことを心に思い描いている事例であり、教えに反した心構えをもっている限り、いくら聞法の場や修行の場にいても、自分の心を成長させ、発展させることができなくなってしまうのである。(事例4)

またこのような不作法を為し、間違った心構えで法座に望んでいなくても、誤った動機によって法座に参加している場合がある。たとえば、殺生や偸盗や邪淫などの正しくない行動、あるいは妄語・綺語・両舌・悪口などの言動、あるいは貪欲・瞋恚・邪見などの考えなどをもって、他の生物を貶めて自分の価値を高めるという自己中心的な欲望を実現するために、仏教を学ぼうとする場合もある。たとえば超越的な能力を身につけて、強盗を行おうとし、殺生の悪業を積まないで済むようなぎりぎりのラインで嫌いな相手に罰を与えて復讐するためにはどうしたらいいのか、ということを考えながら、仏教の叡智を世俗の世渡りにどうやったら活用できるのか、ということを考えて仏教を学ぼうとする人もいる。競合他社の成長をよしとせず、自分たちの利益を最大化するためにはどうしたらよいのか、あるいは少なくとも自分の家族や友達だけは幸せでいてほしいので、そのためにはどうしたらよいのか、ということを求めて仏教を学ぼうとする人も多い。しかしこれらのすべては仏法を真摯に学ぼうとする動機が不十分であり、不純極まりない動機をもっている限り、教えをきちんと理解することなど到底叶わないこととなってしまうのである。(事例5)

C. 大乗菩薩道の実践における障害の事例

大乗道を直接的に破壊する障害の発生例

また菩薩行を行おうと志すけれど、大乗蔵に背を向けて、大乗の教えに真摯に向き合おうとしない場合もある。仏教とは学校で習ったように昔のインドの宗教であり、ツォンカパはチベット人でチベット仏教であり、私たちとは関係ない。玄奘三蔵は西遊記の登場人物で、彼の訳した『大般若経』は文化遺産であるのは、社会的にも認められているが、現代人に直接語られているものではない。テクノロジーが発達した現代の文明社会と紀元前五世紀の釈尊の時代とは、人間が幸せになるための方法にもきっと変化があるだろう。

現代の学者が言うには、大乗経典は釈尊自身の言葉ではないようであり、大乗仏教運動というものがあったことが推測され、在家信者もしくは一部の優秀な出家信者が著作したものであるとする。大乗の教えは、ブッダのオリジナルの教えではない、という学説があたかも正しいように思われて、「原始仏教」なるものを勝手に想像し、阿弥陀如来や観音菩薩や文殊菩薩など、所詮なる偶像に過ぎないという。大乗に対する不信感を募らせていくことで、菩薩乗より声聞乗の方が良さそうで『般若経』より『スッタニパータ』の方がブッダのオリジナルの教えに近いと思ったりする。イギリスや日本の権威ある仏教学者はそんなことを言っているらしいので、きっとその通りであろう。『般若経』よりも『法華経』や『華厳経』の方が良さそうだし、顕教よりも密教の方が「秘密の教え」と呼ばれていて、何となく有難そうなので『金剛頂経』や『秘密集会根本怛特羅』の方が、自分にあった教えであろう、と考えてしまう。戒律護持や出家制度など、所詮過去の社会のものであり、現代社会には合わないと仏法を勝手に解釈しなおして「いまの現代社会の風潮のなか仏教とはこうあるべきであるし、こういうことだけは実践したらいいと思う」「いまの私たち向けにカスタマイズしたオーダメイドの仏教の特別仕様版はこれだ」「とりあえずこれだけやっておけばよい」と仏法をまるでお菓子でも注文するのと同じように考えている。

しかしこのような考え方はすべて「謗法」の業を積んでいるのに過ぎないのであり、大乗の教えを誹謗中傷し、すべての衆生の苦しみを救済するのではなく、特定の誰かを救済する教えを流布して宣伝しようとする偏見に過ぎない。自分の心に合うものには執着し、自分の心に合わないものは遠ざける、ということは、仏法ではなくて、世間の法である。世間の法を仏法にあてはめて、仏教を学ぶことが偏見の上に偏見を重ねていくだけのことに成り下がってしまっていては、仏法を学んですこしでも衆生に役に立てるようになろうとするのではなく、エゴを拡大しようとしているのに過ぎない。(事例6)

こうした「謗法」の業は魔物たちの仕業の中心的なものであり、菩薩行を破壊する破壊工作であり、このような気持ちで仏法を学んでも、単に偏見の上に偏見を重ねていくのに過ぎないし、仏法によって善業を積み、幸福を増長させるのではなく、悪業を積み、不幸の連鎖を増長させようとしていることに過ぎないのである。魔物たちに駆られて妬みや憎しみ、暴力や差別そして偏見や対立を扇動することは、如来たちの本意に真っ向から反する考えである。このような考えをもつことは悪趣へと転生するための準備を着々と進めているだけであり、魔物たちの仕業を行っているこの謗法の業の担い手は、私たちとはどこか別のところにいる恐ろしい格好をした架空の生物なのではなく、鏡の前にいけばすぐにその姿を見出せる人間の顔をした魔物たちである自分たちなのである。

魔物となり、謗法の業に取り憑かれた私たちは、知らぬ間に、大乗の正法を真摯に追求する気持ちを失ってゆく(事例7)。広大な教えである大乗の教えではなく、より簡単な自分が解脱だけすればいいと思う小乗の方が自分には合っているだろうと思ってしまう(事例8)。これはさらに解脱すらも諦めてしまい、仏教など特定の宗教を実践しても仕方がないので、無宗教の方がよい、科学やテクノロジーでも学んで、物質的な繁栄をし、特権階級となり、栄華を極めた方が楽しそうだなと思ってしまう。大乗経典で説かれる大乗の最勝最妙な境地は、何となく立派そうだが、私たちには無縁であり、そんな境地を享受したいとも思わない方が無難ではないかと思ってしまう(事例9)。如来の一切相智や般若波羅蜜など所詮夢物語であるし、ガンジス川の砂の数が数えられるなど絶対に不可能であると思うようになる(事例10)。広大な菩薩行は、如来の利他の活動が広大であることに対応しているという因果関係を忘れてしまい、何もしないでも簡単にある日突然即身成仏して、仏としての利他の活動ができるようになると因果応報の考え方すら捨てた考えに取り憑かれてしまう(事例11)。如来が見ている真実とその直観、三十二相八十種好を具足した身体のなかでも最勝の身体を得ること、無限の未来において、無限の場所で、無限の数、衆生済度の活動のために現出する化身、この無上正等覚の境地で実現することなどきっと出来やしない。実現不可能なことに取り組むのも時間の無駄なのでもうやめておこう(事例12)。こんなありとあらゆる言い訳をしながら、大乗から目を背け、大乗の菩薩行を実践しようとするのをやめてしまう。

これらのすべては謗法の業により、菩提心を見失ったことにより起こるのであり、菩提心を維持するための忍耐力が欠如していることにその原因があり、その感情は精進に対立する懈怠という感情であると呼ばれる「怠け心」に過ぎないものである。この考えは、善なる営みを妨害し破壊し、大乗道を進む上で直接的な障害となり、偏見を増幅させ、私たち自身を人間ではなく、魔物へと変化させ、ちんと菩薩道を歩めなくしてしまう。大乗の仏教徒であろうとする者は、大乗蔵に対して決して謗法の業を積むべきではないのである。

散乱による間接的な障害の発生例

 また大乗道を歩もうとしているのに自らこうした妨害活動を行ってはいないけれど、結果的に大乗道から外れてしまっている場合もある(事例13)。これは大乗道を歩もうとせず、別のことに気持ちが揺らいでいることから起こる散乱である。たとえば物質のさまざまな形状や色彩、音声のさまざまな状態や響き、心が向かう様々な対象やそれに伴う感情、自分の活動や他人の活動による結果や問題点といった事柄を正しく知る必要がある。衆生済度のためには様々な対象に対する知識が必要であることは確かである。しかし、必要以上に様々な対象を考えても際限はなく、多すぎる思考は正しい知性のバランスを失わせ、知るべきことの本質を見失わせてしまう。

また如来の言葉を記した既成の文献にのみ集中し、如来が伝えたいと思っていることを知ろうとはせず、ただひたすら書物を読み耽ることにだけ耽溺してしまっていることもあるだろう(事例14)。また既存の文献ではなく、如来や善知識の言葉を忘れないようにと新しく文字に書き留めることばかりに集中し、如来が伝えようとしている表現内容から心が散乱している場合もある(事例15)。また深淵なる真実は言語化不能であるということにばかり気を取られ、何か超越的で、絶対的な普遍的真理というものを勝手に想像し、それを過度に執着してしまうこともある(事例16)。また言語化して記述することがもできない情報が非公開になっているということに執着してしまっている場合もある。(事例17)

菩薩行をある程度実践できるようになっても、自分の所属する国家や地域や共同体の日常のどうでもいい動向にのみ気をとられている場合もある(事例18)。また菩薩行を実践していても、それによって寄せられる物質的な繁栄、報酬、権利の獲得、評判や名声、権利、あるいは文法学や修辞学や文学に耽溺してしまい、求めるべき「内明」ではなく、文化・芸能・芸術のような「外明」にばかり気を取られてしまう場合もある(事例19)。あるいは非道なることを実現するために、魔物の経典や世間の戦略ばかり学んでしまい、大乗の教えを実践しようとすることから道を逸脱してしまっている場合もある(事例20)

これらは大乗道の実践を直接的には妨げてはいないが、本来なすべきことの中心ではない、枝葉の部分にのみ気を取られているのであり、このような思いを持っていることそれ自体が、間接的に菩薩行の実践を妨害しているので、魔物たちの仕業ということができるのである。

障害を発生させている魔物は自分自身である

以上A. 教法の理解に対する障害の事例、B. 身口意の三業における障害の事例、C. 大乗菩薩道の実践における障害の事例という障害の発生事例を確認してきたが、これらの障害を発生させているのは自分自身であり、これは「魔物たちの仕業」「悪魔の仕業」「悪魔の活動」と呼ばれるものであり、菩薩行を実践することを破壊する活動であるが、この破壊活動を行っているのは、私たち自身であり、他の誰かのせいでは決してない。教法が理解できないのは、私たちの知力と努力が足りないからであり、 身口意の三業の障害は、他人の行動や言動や思考とは無関係であり、私たち自身の他人の行動や言動や思考に問題があるからである。大乗菩薩道の実践をするのを直接妨害する謗法を中心とするすべての悪しき思考は私たち自身がもつ感情であり、大乗菩薩道から外れて別のところを目指しているのも私たち自身に他ならない。しかるにこれらの魔物を退治し、魔の囁きに心を躍らせないようにするためには、自分以外の他者が魔物であり、彼らの責任であり、自分には責任はない、と思うべきではない。これらの魔物たちを克服するのは、自分自身でできることであり、私たち自身がそのような活動に手を染めている状態をやめるだけでよい。菩薩道を実践するのを妨げる魔物とはほとんどが私たち自身なのであり、恐ろしい悲劇を作り出すのも私たちであり、魔物たちの邪道ではなく、しっかりと菩薩道を歩もうとコントロールできるのも、私たち自身の問題であるということになる。

魔物が他者である事例

これらの私たち自身が魔物となり、菩薩行を妨害している場合以外に、魔物が自分たち以外の場合はないのか、というとそうでもない。たとえば魔物が立派な比丘の格好をしてやってきて、「私が伝えている経典ではこうこうこうです。あなたが知っている経典は本当の如来の教えではありません」と言ってくることもある。彼らは仏法とそれを信奉する人たちとの間に亀裂を作り出そうとし、分断による破壊活動を企てようとしてやってくる(事例21)。あるいは魔物たちが、また偽物の経典を偽造して魔の教えを流布しようとやってくる場合もある(事例22)。さらに魔物たちは如来や菩薩や善知識の姿に化けて現れて、煩悩を増大させるように仕向けてくる場合もある(事例23)。魔物たちの教えや姿は私たちにとっては魅力的に見えるものであるし、私たちはそちらの方を好み、心を奪われて、本来学ぶべきものではないものを学んでしまうようになる。魔物が自分たち以外の生物の場合には、この三種類の事例のみしかないが、他者である魔物の破壊活動で誘惑されてしまっているのは自分たちであり、菩薩行を行えなくなっている問題は私たち自身にあるものである。

まとめ

以上は、四十六種類の「魔の仕業」「悪魔の仕業」「悪事」と呼ばれるもののうち、未だ菩薩行をしっかりと実践していない時に、加行に対して直接悪影響を与える逆縁が存在している場合の二十三種を簡単に見てきたが、この魔の仕業は、『八千頌般若経』第十一章「魔事」などで説かれるものであり、弥勒仏はこれを注釈し「〔加行の〕過失は四十項目と六項目と必ず理解しなさい」(『現観荘厳論』)と注釈し、本詩篇の数年前に完成したジェ・ツォンカパの代表作のひとつである『現観荘厳論註釈・善説金蔓』第四章で詳しく解説されているものの前半部分をまとめたものである。『現観荘厳論』の注釈者たちのなかには、これらの「魔の仕業」である、初学の菩薩から資糧道・加行道の段階に主に起こり、第七地の菩薩にも微細なものが起こる可能性がある、とする学説も存在する。この加行の過失を「魔の仕業の正体である」とする説や「魔の仕業に似たものである」とするものや「魔物に取り憑かれる可能性がある行いである」とする説など解釈の詳細に若干の差はあるものの般若経で説かれる般若波羅蜜を修習する妨げとなる「魔の仕業」とはこの四十六種類の事例である。

ジェ・ツォンカパは「魔事」「加行の過失」と呼ばれるものは、大きくわけて、(I)「いまだ起こっていない加行に対して直接悪影響を与える逆縁が存在している場合」の二十三種、(II)「逆縁そのものは存在しないが加行が起こるための要因が不十分であるため、その結果として悪魔たちの勢力を駆逐できない場合」の二十三の事例があり、この二つを合計した四十六種類の事例が「魔の仕業」となる。本記事では(I)の二十三種の事例のみを確認したが、長文となったので、後半の二十三種類の事例と魔物たちの退治法については次回の続編でみていこう。

護法尊たちに調伏されて描かれる魔物の姿は、情けない私たち自身の姿を描いたものである。

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