勝者の密意を清浄道理で如実に証得する
意趣に則ってご自身でも慈心に動かされ
善巧方便を行じ他者へ教示も究竟し給う
そんな善知識たちにまた出会えるように
彼らに師事し数多の法を聴聞しつづけて
その海原で永く漂い疑念のすべてを断つ
彼らが語らんとしたことを現実化して
善逝たちを歓喜しつづけられるように
すべての生きとしいけるものたちの苦しみを堰き止めるため、私たちは菩薩行を実践して仏の境地を目指してゆく。私たちが実現したいこと、それはここにいるすべての衆生たちの苦しみから完全に解放することにある。しかしいまの私たちはまだ駆け出しの菩薩の真似事をしているのに過ぎない存在である。自分自身を振り返ってみれば、衆生たちを救済の地へと導けるような存在とはいえない。まずは自分たちの心をみつめ、菩薩たちと同じような志をもっているのかどうか、それを問いかけてみる時、まずは自分たちの不甲斐なさを実感するのだろう。
菩薩としての航海をこれからはじめなくてはならないが、ひとり孤独に大海原を航海し、三阿僧祇劫も遠い彼岸へと辿りつくのには、この長い旅の道標が必要となる。まずはこの長い旅にでる旅支度として、たとえ今生でこの身が尽きたとしても、来世でもまた再び仏教に出会い、まずは出家の所依を得て、戒体を護持しつつ、律を土台としてさまざまな功徳を実現していかなければならない。いま暇とゆとりのあるこの如意宝珠よりも貴重な人身を得て、この人を無益に終わらせる訳にはいかないし、すくなくともこの人生において、そしてこれからの長く転生しつづけていく過程において、いつも私たちを導いてくれる善知識たちと再び出会い、自分たちがきちんと菩薩の道を歩みつづけられているのかどうか、ということを判断していただかなければならない。善知識に出会い、善知識に正しく師事すること、これは三士の菩提道次第のはじまりにいつもあることである。
いつ死ぬのかも分からず、必ず死というすべての衆生に共通する苦難はやってくる。この死の原因は煩悩と業にあり、その煩悩と業を克服しようとしても善業を積むのを妨げる悪魔のささやきが聞こえてくる。この輪廻という狭苦しい容れ物に閉じ込められている私たちは、この自分たちが慣れ親しんでいる身体と精神という容れ物こそが苦しみそのものであり、それが私たちに取り憑いている悪魔の正体であることを知る。ここにいる限りそんな悪魔に取り憑かれつづけているが、それを慈しみの軍隊で制圧して勝利した方々がいる。彼らは「勝者」と呼ばれ、この悪魔との闘いにどうやって勝利したらよいのか、という作戦を教えてくれている。それが如来の教えであり、救済そのものである。
如来たちが教えてくれる悪魔たちに対抗する戦略は、戦いの場に応じてさまざまな戦略が説かれている。しかしより広大な戦場へとでかけてゆき、より多くの寄る辺なき衆生を救済するためには、自分自身でも戦いの場面に応じて戦略を組み立てることができる論理が必要となる。如来たちはより複雑な戦いを広大な戦場で行わなければならない菩薩たちに戦略の立案の手がかりとして、四つの論理、すなわち「四種道理」を説かれている。まずはすべてのものの本質・本性を見極め、現状を正しく見つめ、現状を正しく知るための論理すなわち「法爾道理」を説かれている。その上で、ひとつひとつの物事にはその本質や本性に対応する動き、そしてはたらきというものがあり、それが一体何かということを示唆する「作用道理」が説かれている。その上で複数のものの関係性、全体と部分、原因と結果、動作と動作対象といったものの依存関係を示唆する「歓待道理」が説かれている。この法爾道理・作用道理・歓待道理という三つに基づいて、あるものは、あるものを滅すると、滅する。あるものはあるものの全体や部分である、のでその全体はこれである、といった命題を組み立てるための「証成道理」が説かれている。この四つの誤りのない清浄なる論理によって、如来のすべての教えはできているのであり、この論理を私たちは自由に使うことができるようになることで、すべての苦しみのあらゆる場面における対処法を自ら構築できるようになるのである。
私たちを導いてくれる善知識たちは、如来の説かれた言葉を単に文字列の記憶としてではなく、この如来が示した論理による構成法に通じている方々である。彼らの言葉は如来の論理に裏付けられており、彼らは如来の論理にもとづいて如来の意向を理解して、如来の意向を如来の強靭な論理に基づいて自らも実践されている。彼らの目指すところは、すべての衆生の苦海からの救済であり、常に出来損ないの私たちにも分かりやすく、納得のいく形で法という宝の雨を私たちに降らせてくれる存在である。「善知識とは、自ら律しており、寂静であり、寂滅している者である」――こう弥勒仏が教えてくだっているように、彼らの功徳は圧倒的なものであり、しかも常に勤勉で、如来たちの言葉に通じており、真実を理解して、私たちに分かりやすく語りかけてくれる希代の噺家でもある。私たちのような駄面な弟子たちにも深い慈愛の心から丁寧に、菩薩道というこの大航海を歩んでいくための道標を示してくれる存在である。彼らは自らも勤勉で常に善業に精進されているからか、私たちのような怠惰な弟子たちのためにも、素晴らしい如来や菩薩や賢者たちのことばを丁寧に授けてくれる存在である。私たちは常に偏見を捨て、真実に対する探究心をもち、善知識たちが説かれている言葉を如来の論理によって理解しようとして、この地上で釈尊たちの代わりに私たちに仏法というこの地上で最も貴重なものを授けてくれる彼らにこれから先もまた出会いつづけ、彼らにしっかりと弟子として受け止めていただかなくてはならない。
善知識に師事する作法として、善知識とはどのような存在なのか、そして弟子としては如何にあるべきか、善知識に師事する、ということはどのようなことなのか、それらを正しく理解し続けながらも、来世でもまたその次の来世でも、たとえこの惑星がなくなろうとも、たとえいまの住んでいるこの街から遠い場所に転生した時にでも、正しい師と決して離れることなく、常に最高の吉祥である法という宝の海のなかで私たちは漂いつづけ、その梵音が響きつづけるなかで、自らの悪しき心の闇を払拭していかなければならない。彼らが私たちに語ろうとすること、如来たちが私たちに教えようとされたこと、そのひとつずつをしっかりと受け止めて、真摯にその彼らが目指したものを現実に実現していかなければならない。これから先、一切衆生を利益できる仏の境地にいたるまで、決して彼らから離れることなく、常に彼らに出会いつづけ、彼らから再び聴聞し、その内容を実践して、一歩ずつ、この遠い道のりを歩んでいかなければならないのである。
もちろん善知識たちや法友たちがいつも私たちの側にいてくれるわけでもない。ひとり生きていなければならない時の方が多く、心が折れて砕け散ってしまいそうになる時ももちろんあるだろう。しかし如来たちが大乗の法輪を転じたのは我々のためなのであり、私たちがその痕跡を辿り彼岸へと目指そうとする限り、私たちのこの道程には、虚空無辺の三世の諸仏たちの歓喜に満ちた、やわらかな慈愛にみちた光が降り注ぎつづけている。本偈は多くの善知識に正しく師事し聴聞し実践してきた、ジェ・ツォンカパが感じる、やわらかく、あたたかい、彼岸へと続く光の筋の所在を表現したものである。