2021.12.21
བྱམས་པའི་བསྟོད་ཆེན་ཚངས་པའི་ཅོད་པན།

菩薩衆の末席に在り続けるため

ジェ・ツォンカパ『弥勒仏への悲讃・梵天の宝冠』を読む・第29回
訳・文: 野村正次郎

忍耐強く誠実で詐ることもなく

畏れずに勇敢であり信念をもつ

崇敬の念でいつも精進を怠らず

洞察力ある最勝の智慧を得んことを

33

一切衆生を利益するために、無上正等覚を得んと心に決めた菩薩たちは、梵行の菩薩として菩提にいたるその時まで、六波羅蜜と四摂事にまとめられる菩薩行を常に実践する。彼らはすべての衆生に深い慈悲を心に抱いているからこそ、衆生たちの心の闇によってどんな危害を加えられようと決して復讐しようとは思わない。他の衆生に暴力的な感情をもち、暴力的な言葉を発し、暴挙にでている者たちの心の闇、それが彼らを苦しめ、彼らを罪業へと向かわしめるものであることを知っている。自分の財産、身体、生命がたとえ脅かされることがあろうとも、そんなたったひとりのこの私にそんな暴力がふりかかろうと、そんなことは大きなことではないのである。彼らは煩悩に苦しみ、この私、そしてこの私の周囲に対して誤った働きかけをしてきているのにすぎない。どんな痛みを味わおうとも、どんな辱めを受けようとも、私たちがほんの少し彼らの苦しみに寄り添おうとするのなら、私たちに小さな苦痛のように思えることなど実にくだらないのである。私たちは自己中心的な自己愛に満ちた醜い衆生になろうとしているのではない。私たちは利他の志をもち、すべての生きとしいける者たちの苦しみの終焉を目指しているのである。

またこれから先三阿僧祇劫も仏位を得るまでの間、様々な困難がある。しかしそんな苦難や受難など釈尊が苦行を示してくださったあの様子に比べれば、実に小さな苦しみに拒絶反応を示しているだけである。私たちは菩薩として生きると決意したのだから、そんな小さな苦しみにつべこべ不満を述べてばかりいるわけにはいかない。菩薩として生きる、ということのこの苦行は並大抵のことではないのである。菩薩たちは自らの身が粉々になろうとも、この肉体が切り刻まれようとも、痛みではなく歓喜を覚えるのである。世間の者たちから笑いものにされようとも、変人扱いされようとも、そんなことに拘っているようでは、如来の家族の一員として実に恥ずかしいことなのである。

如来が説かれた法性の真実は甚深難解であり、その真実を直視し続けていることは、決して楽なことではない。事実はすべてを物語っている。真実は時には暴力的に私たちの心に衝撃を与えるものである。自分が求めているすべては苦しみであり、自分が何も感じずに気づかないうちに享受しているこの生命は輪廻の苦海そのものなのである。すべては自己中心的な発想にもとづく自己愛によってこの世界は彩られている。この世界は魔物だらけであり、魔物たちは私たちの心を蝕んでいる。すべてのものが原因と結果によって関係し、どんな小さな営為さえも、注意力が散漫になれば、すぐに他の衆生たちの苦しみになってしまう。

忍耐、忍辱、それらの逆ものものは「懈怠」と呼ばれるものであり、それは自分たちに対する危害に対する抵抗力、善行を実践する上での苦難を乗り越える力、真実から決して眼を背けない事実を受け入れる恐怖への抵抗力のことを指している。菩薩として生きると決意した以上、私たちはそんな最勝なる菩薩に相応しい忍耐力をもっていなくてはならない。

しかしそんな説教じみたことは言われなくても分かっているが理想論であって、生きている限り敵対してくれる者もいるし、味方もいる。私たちに噛みつこうとする者もいるし、私たちを切り刻んで殺そうとする者もいる。私たちの心に土足で踏み込んできて、私たちの善意を踏み躙るものたちも大勢いる。だから、そういう者たちにはどうしても慈悲心や愛など持ちようがない。そんな悪魔の囁きが聞こえてくるかもしれないが、これは完全に間違いである。私たちは常に偏見を捨て、他者を平等に見る必要がある。というのも私たちの心に土足で踏み込んでくる者たちであれ。私たちの欲望を駆り立てる笑顔で誘惑してくる者たちであれ、同じように苦しみの淵に溺れているのに過ぎないからである。この者は私たちの味方である、この者は私たちの敵である、そんな意識は単なる偏見に過ぎないし、そんな感情を抱いているようでは、菩薩として生きることなど出来るわけがない。常に誠実であり、公明正大であり、真摯に他者に接すること、それは他者の痛みを正しく想像でき、深い苦しみの闇に包まれた者たちを、より深く愛せる、慈悲深い人間となることである。

自分には菩薩として十分な功徳もないのにその自分の醜い姿を隠蔽して都合よく見せようとしてはならない。また自分には功徳が無いにも関わらず、他者には自分は立派であるように偽装工作してはならない。嘘と虚飾を纏うのではなく、誠実さと詐りのない真実の士たらんとしなくてはならない。それはあくまでも理想であり、自分には現実的には決してそんなことことなど出来やしない、と諦めてもいけないのである。自己を過大評価することもなく、自己を過小評価して言い訳をすることもなく、決して怠けず、畏縮せず、常に菩薩という勇者たらんとし、この菩薩行こそが、すべての生きとし生ける者たちの利益することができる唯一の方法である、と確信を持たなくてはならない。この菩薩行こそがすべての如来たちが辿った方法であり、これを日々実践することに崇敬の念を抱きつつ、どんな日でも、どんな時でも決してこの菩薩道から外れることなく、一心不乱に衆生済度という偉大なる目的の実現のため、仏位を目指していかなければならないのである。大乗の道、菩薩の道、大乗の果、菩薩の果、これは生半可な決意で実現できるものではなく、その功徳は無量であり、不可思議である。そんな菩薩行に対する信仰心、そして常にその行を歩み、その歩みを喜びとする精進を心に抱いて生きていかなければならないのである。そしてその歩みのなかでどんな岐路にたつことがあろうとも、常に法性の真実に則した正しい選択をし、決して道を誤ることのない、般若波羅蜜と言われ、すべての仏を生み出す母であると言われる洞察力をもち智慧を心の灯火として、さまざまな闇や苦難を乗り越えていかなければならないのである。

いますぐに私たちがそんな偉大なる菩薩行を完全に実践できるかどうか、と問われたら、まだまだ弥勒仏や観音菩薩のようにここに生きているとは言い難い。しかし、私たちはすべての衆生を自分たちの母であると知り、彼らの苦しみに耐え難い感情を抱き、その苦しみを取り除かんために如来の境地へと心を決めたのである。だからこそ、菩薩に相応しい忍耐力、分析力、創造力、抵抗力、洞察力など、福徳の資糧と智慧の資糧という、如来の身体と精神をかたちづくる二資糧を自分の心に蓄積していかなくてはならないのである。

幸いなことにこの歩みは決して孤独な歩みではない。この世が魔物だらけに見えるのは、私たちの眼が曇っているからなのである。この無数の衆生たちは、過去・現在・未来のすべての菩薩たちが菩愛してやまない存在であり、彼らを対象に菩薩たちは修行を積んできたのであり、二資糧を積集し如来という果実を得るための福徳を育むための畑であり、この福田の上に菩薩行を育ててきた。もしも闇に包まれた衆生たちがいないのなら、私たちは決して成長し仏になることなど出来ないだろう。だからこそ私たちも、すべての衆生が輪廻の苦海に悶えているこの状況に出会えたことに感謝し、この仏位を得るための最大の好機を眼の前にして、今日もまた、そして明日もまた多くの衆生に接しながら、繰り返し何度でも菩薩の決意を固めなければならず、菩薩たちの偉大なる行の向かう方向へと、今日もまた一歩着実に歩みだそう、こんなジェ・ツォンカパの忍辱を中心とした決意を本偈は表現している。

People of Tibet51
菩薩がのる菩提心という馬は疲れることを知らない

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