これにはまた三性なるものがあり、
遍計所執・依他起・円成実がある。
また世俗諦・勝義諦という二諦がある。
さらにまた自相・共相の二つに分かれ、
言葉の直接の対象であるものかどうか、
類似し共通しているものなのかどうか、
有漏か無漏か等の二つに分かれている。
所知などの一切法をどのように分類するのか、というのには、事物・常住者や有為法・無為法にあたる実在・非実在などの分類があり、本詩篇はこれまで、事物・常住者の下位項目ならびに有為法・無畏法の項目や五蘊・十二処・十八界を説明してきたが、ここではそれらのすべての法がまた遍計所執・依他起・円成実の三性に分類できたり、世俗諦・勝義諦という二諦に分類したり、自相・共相などに分類できる、ということを簡潔に紹介している。具体的にこれらの各項目が如何なるものなのか、ということを理解することは仏教全体を理解することであるし、これらの各項目のすべてを理解する、ということは一切法を正しく知り、如来となるということと同義であるので、今回は語句の一般的な説明だけを簡潔に説明しておこう。
まず三性であるが、これについては「唯識の三性説」と呼ばれて日本ではよく知られており、あたかも唯識派に特有な学説のように扱われているが、ディグナーガやダルマキールティの論理学や中観派のさまざまな伝統教学を総合的に継承するジェ・ツォンカパやゲルク派の標準的な学説では、一切法を三性に分類するのは、決して唯識派独自の学説ということにはならない点には注意が必要であろう。遍計所執性とは、分別知が構想しているもののことであり、これは円成実性ではないすべての無為法と同義のものである。また依他起性は有為法と同義のものであり、円成実性とは、人すなわち衆生・生命体・有情などと呼ばれるものが、他のものに依存しないで単独で存在し得る実体として存在していない人無我と同義であるものである。唯識派や中観派では、円成実性にはさらに法無我空性なども円成実性と同義であるとする。存在するすべての法にはそれぞれに三性があり、あるもの(x)がある時に、その(x)それ自体は依他起性であり、(x)の存在それ自体は遍計所執性であり、その(x)にある、その(x)が他のものに依存しないで単独で存在し得る実体として存在していない側面、すなわち人無我の部分が円成実性ということになる。
世俗諦・勝義諦とは二諦と呼ばれるものであり、これもまたすべての法の分類であり、ある一つのものには常に二つの事実があり、その事実・真実のうち、無我の真実を直観できない世間の人々が見ている、覆われた事実のことを世俗諦と呼び、無我の真実を直観している出世間の聖者たちが特殊な真実を直観する智によって見ている真実のことを勝義諦と呼ぶのが一般的な二諦の内容である。ここでは仏教論理学を主に紹介している箇所であるので、ダルマキールティが「勝義としての実在対象形成力をもつものが自相である」というものと「所量は〔自相・共相の〕二つであるので、量もまた〔現量・比量の〕二つである。」と『量評釈』で述べていることから、世俗諦・常住者・無為法は同義であり、勝義諦・有為法・事物は同義であるということにある。唯識派や中観派は勝義諦であれば、空性であり、空性であれば勝義諦である、というように勝義諦と空性を同義であるとする。世俗諦・勝義諦の二諦の学説を二諦説と呼び、この二諦説を中観派独自の学説であるかのように過度に強調し紹介している言明が現代の研究者による書物には存在するが、二諦という分類を唱えることそれ自体は、毘婆沙師・経量部・唯識派・中観派に共通することであり、何を世俗諦・勝義諦とし、それぞれの学派がなぜ二諦のそれぞれをどのような意図でどう定義するのか、ということについても異なった各学派の独自の規定があるので、それらの詳細を知るには多くの仏典を対照しながら考えていく必要があり、本詩篇の作者であるクンケン・ジャムヤンシェーパもその主著である『学説大論』で各学派の二諦説について詳細な説明を行っている。
自相・共相という一切法の二分法もまたこの世俗諦・勝義諦とほぼ同じであり、言葉や分別に依らないで、勝義としての直観の対象として実在の対象形成能力を有するものが自相であり、そうではないものを共相という。
またダルマキールティの論理学では、ある対象が知に顕現している時、それを対象化している知に顕現している通り言葉の対象でもあるものかどうか、あるいはある対象が知に顕現している時に、その知に他のものとは類似していない排他的な独自の姿で顕現しているものか、そうではなく、他のものと類似する共通の形象として顕現しているものなのか、どうかというように分類できるとする。また『阿毘達磨倶舎論』のようにある対象をそれ自体もしくはやその対象に反応した知が、それを対象化し、反応したことによって煩悩が増大し得る可能性のあるもののことを「有漏」であるとし、そうではないものを「無漏」であるとする一切法の二分法もあり、これら以外にも一切法の分類の仕方にはさまざまなものがある。
遍計所執・依他起・円成実や世俗諦・勝義諦、さらに有為法・無為法、有漏・無漏、自相・共相、さらに実有・仮有、勝義有・世俗有・言説有をはじめとし、五蘊・十二処・十八界などを正しく知るためには、それぞれの項目がお互いにどのような関係にあるのか、ということを繰り返し検討し、さらにそれぞれの学説において、何がどこに属して、何がどこに属さないのか、などといったことを繰り返し正しく理解することが必要となる。たとえば唯識派にとって馬は仮有であるが、勝義有であり、勝義諦ではなく、世俗諦であり、有為法であり、依他起性であるが、有漏であり、柱は実有であり、勝義有であり、世俗諦であり、柱ではないものの逆のものは共相であるが、柱ではないものの逆のものであれば、すべて共相ではなく自相である、といった遍充関係を考えていくことを、僧院では毎日の問答法苑での学友たちとの問答を繰り返すことで学んでいく。こうしたカテゴリ分けの訓練を正しく知るならば、宇宙人は無常な事物であり、勝義有であり、実有であるが、有漏であり、世俗諦であるので、宇宙人がいるかどうかといったことを探求しても煩悩が増えていくだけなので、宇宙人が存在するかどうかを探求することは、仏教ではまるで関係のないことであることが分かるようになるのであり、一方で仏陀や如来は無漏であり、常住不変な存在であるが、如来の身体は無漏であるが無常な存在であり、自相であり、依他起性であり、唯識派にとっては世俗諦であるといったことが正しく理解できるようになり、すべての仏陀は人間でも神でも衆生でもないので、「歴史上の人物としてのブッダ」「ゴーダマブッダはインドで死んだ」などといった言明それ自体が如何に仏教の伝統から外れた思考であり、非論理的な発想なのかということも分かるようになるのである。
これらの知の対象の分類は、どのような知がどのように対象を知り、それをどのような観点で整理するとどうなるのか、ということを衆生の一切法に対する理解を促進するために、説かれているものであって、最終的に成仏するためには、これらのすべての項目を正しく分類できなければ、成仏することなど不可能である。しかるに複雑な分類項目をひとつずつ知ることは、仏道修行には極めて重要であり、煩雑であると思って、自分の気分で都合よく勝手に解釈すべきではない。しかし初学者がひとりでこれらを正しく知ろうとするのは、不可能に近く、そのために僧院などでは学友と楽しく問答をしながら、こうしたことを学んでいけるようになっている。その伝統はインドのナーランダー僧院の伝統を継続しているものであり、青年僧たちはこういった複雑な論理体系を楽しく学べるシステムがある、ということは非常に重要なことではないかと思われる。本詩篇の冒頭にも「知るべきことは草原のように広大で、正理の道程が華開いて咲き乱れている」と説かれているように、一切法の分類の仕方には草原にさまざまな芳醇な香り漂う花々が咲き乱れている、という全体イメージを持ち続ければ、如来がすべての衆生を対象に説かれている論理を知ろうとすること自体を愉しむ情趣を感じられるようになるだろう。