2021.11.05
ཀུན་མཁྱེན་བསྡུས་གྲྭའི་རྩ་ཚིག་

そこからすべての現象は起こってくる

クンケン・ジャムヤンシェーパ『仏教論理学概論・正理蔵』を読む・第25回
訳・文:野村正次郎

処には十二種あり、

外の色等の六外処と、

内の眼等の六内処がある。

十二処とは対象とそれを捉える感官とで一切法を区別したものであり、対象とされるものを「外処」と呼び、それを対象とするものを「内処」という。対象には六境があり、色処・声処・香処・味処・触処・法処の六外処があり、それを対象とするものは六根であり、眼処(眼根)・耳処(耳根)・鼻処(鼻根)・舌処(舌根)・身処(身根)・意処(意根)の六内処があり、合計で十二処となる。「処」とは様々な心・心所がそれを通じて増大して生じてくる「門」「場」のことを表しており、たとえば、青などの色処が眼処(眼根)と接触することにより、眼識などが生じるのであり、私たちが感じて考えているもの様々な出来事の出自を通して、様々な現象を分析しようとするものである。しかるに内処とは様々な意識が起こってくるきっかけとなり、由来となる出自を表しているものであるので、眼識などの感官知を内処として数えるのではなく、感官知などはそれを対象とする内処たる意根が捉える法処であり、眼識から意識までの六識はあくまでも法処であるということになる。

このように五蘊・十二処・十八界の各項目を組み合わせて考えると多少複雑になるが、この組み合わせを考えることにより五蘊・十二処・十八界を正確に理解できるようになる。たとえば色処から食処までは色蘊に属するものであり、同時に眼処から身処までの五根もまた内部物質であり、色蘊に属している。これらのことは「眼・眼根・眼処とは同義である。」と表現されるだけ過ぎず、このひとつの命題から耳や色処などの他の場合に正しく推測して学んでいかなければならない。たとえば色界は色処ではなく、眼界は眼とは同義ではなく、白馬は法処であり、色処ではないので、白ではなく、地・水・火・風は地界・水界・火界・風界と同義ではないのは何故か、といったことを考えていけば、かなり難しい議論が展開していくが、こうしたことは通常デプン・ゴマン学堂などでは級友と何時間もさまざまな場合について問答をすることを通じて理解していくことであり、ここではあくまでも概要のみを理解することが本詩篇の目的でもあるので省略しておこう。

五蘊・十二処・十八界は、釈尊が説かれた仏教の基礎であり、色蘊・受蘊・想蘊・行蘊・識蘊の五蘊ではすぐには理解できない人のために、色処・声処・香処・味処・触処・法処・眼処・耳処・鼻処・舌処・身処・意処の十二処が説かれており、これでも分かりにくいと思う人々のために、色界・声界・香界・味界・触界・法界・眼界・耳界・鼻界・舌界・身界・意界・眼識界・耳識界・鼻識界・舌識界・身識界・意識界の十八界が説かれている。これらは苦・空・無常・無我といったものの主語となるものであり、「色処は苦である」「色処は空である」「色処は無常である」「色処は無我である」という命題を理解するためには、まずは主語となる色蘊などが一体何かということを理解していなければ、当然のことである述語部分である苦・空・無常・無我など理解できることはない。また輪廻転生の過程を説いている十二因縁の第四名色・第五処は十二処が何かを理解できなければ理解できない。

また般若経で説かれる十八空性のうち「外空」とは色処などの外処が無自性空であることであり、「内空」とは眼処などの六内処の空性のことであり、「内外空」とは十二処の空性を説くものであり、大乗であれ小乗であれ、五蘊・十二処・十八界を分別して数えることができないうちには、大乗の奥義である甚深空性も分かることなどあり得ないし、五蘊・十二処・十八界は煩雑なので大乗の甚深空性だけ分かればよい、と自分勝手な解釈をしても、五蘊・十二処・十八界が分からなければ、大乗の甚深空性など分かりようもないのであり、それが分かりようもなければ空性に対する理解を本尊として生起させる密教の修行なども到底不可能であるし、五蘊・十二処・十八界も分からないで衆生を解脱の境地に導いて救済することなど絶対に不可能なのである。これは犬と猫と馬と扇風機と自転車の違いが分からなければ、機械と生物の違いが分からないし、「馬は乗り物である」「自転車は乗り物である」「扇風機は乗り物ではない」という命題や「馬は乗り物でもあるが、猫は乗り物ではない」という命題も理解できないのであり、こういうことが分からなければ、「この人身は如意宝頌よりも貴重なものである」「すべての衆生は苦しんでいる」ということも分かることがないのである。

五蘊・十二処・十八界は、如来の説かれた三蔵のなかでは論蔵に属するものであり、それは慧学処を主に教示する仏説にほかならない。五蘊・十二処・十八界に分類される一切の法を如実に智見する者がブッダと呼ばれるのであり、如来や菩薩聖者のなかに五蘊・十二処・十八界が何かを区別できない者など全く存在していない。「五蘊・十二処・十八界なんて所詮古い未開のインドの人たちが考えたことだから、私たち文明人には関係ないし、仏教の思想の中心は空性なので、そんな面倒な教えはパスしてとりあえず空だけわかればいいんだ」などと勝手に解釈してはいけない。これではせっかく私たちのために釈尊が五蘊・十二処・十八界を説かれていても、まさに馬の耳に念仏ということになってしまうだろう。私たちの眼にするもの、耳にするもの、思いや悩んでいるすべてのこと、それが五蘊・十二処・十八界のどれに属していて、どれと組み合わさることでいまの問題や悩みが起こっているのか、ということを冷静に考えること、この知的な習慣を身につけること、それがすべての仏教徒に求められている身につけるべき「慧学処」の基礎なのである。

すべての現象は12のゲートをくぐって起こってくると考えるのが十二処である

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