勝者と勝子の御前で五明処の
海原に幾度も生を受けてきた
聞法を繰返し 習気は覚醒する
衆生に賢道を示す君が唯一の眼
過去の賢者たちにも見放されてきた
何方へ向かうべきなのかも判らない
寄る辺なくここにいま迷い込んだ私
大慈の君が客人として迎えてくれる
何度でも転生しても君を仰いで仕えたい
救済主 弥勒 大慈で衆生を救われる方
速やかにここへと降臨され給わんことを
幾世でも勝乗の善知識となられんことを
私たちは自分の居場所については比較的強く意識しているが、自分が過ごしているこの時がどんな性質のものなのか、ということについてはそれほど強く意識していない。自分が何処にいるのかという自分の居場所についても、自分が行ったことがある場所、あるいは、聞いたことがある場所のなかからいまここにいる、と特定しながら理解する。しかしいざ、自分がどんな惑星のどの辺りに住んでいるのか、どんな銀河系に住んでいるのか、と問いの視点を大きくしてみれば、判然としなくなってしまう。どんな所にいるのかは、自分の経験の範意内では想像できるが、少しでも見知らぬ場所に旅にでてみれば、すぐに簡単ではなくなってしまう。
自分のいる時間については、自分のいる居場所よりももっと分かりにくい。というのも普段からいまこんな時を過ごしていると意識することの方が、空間的な場所の移動によって得ている自分の居場所を意識することよりも難しいからであろう。自分が生きているいまこの時から換算して、昨日、数日前、数ヶ月前、数年前と記憶を遡っていくだけでも、心を落ち着かせておかなければ不可能であり、ましてまだ見たことのない未来である、明日、明後日、数日後、数ヶ月後、数年後、死後、何世代か転生した後のこと、ということを考えるのはもっと困難である。空間的な位置情報を確認することよりも、時間的な位置情報を確認する方が想像するのは難しいし、その想像の際に使用する視点を変更していけば、自分がいまどんな時にここにいて、どんな人と出会って、どんな生を生きているのか、ということをもっと正確に知ることができるが、視点を拡大・縮小し、空間的な移動だけではなく、時間的な移動、すなわち履歴や推移を考えるには、知性の訓練をある程度必要となってくる。そして本偈で説かれていることを理解するためには、こうした時間的にも巨視的な視点が極めて重要である。
本偈で表現されていることは、私たちがいま何らかの形で仏教との関係をもっている、ということは、無始以来の過去世において、さまざまな形で過去の諸仏と出会ったことがあるからであり、過去に菩薩たちのもとで、仏教とそれを理解するために必要な形而上学・論理学・弁証法・数学・物理学や工学、そして医学や薬学などを学んだ経験があり、かつ善業を積集した結果として、いま人身を得ていて仏法に出会えている。私たちは釈尊と直接関係していたのであり、だからこそいま、この釈尊の教えを享受しており、その教えの実践を完全にはできなくても、衆生に正しい道を示す釈尊の代理人である弥勒如来の所化としても生まれてきたことは事実なのである。
しかしこうしたことを歴然と時のいまとして感じることができたとしても、同時に私たちは龍樹や提婆、無着や世親といった過去の賢者たちの教えにも触れてきたはずなのに、それらの深淵な教えの内容を充分に咀嚼できていない。彼らが真摯に述べている如来の意図を私たちは充分に理解してこなかったのであり、彼らがせっかく素晴らしい論書を残してくれていて、私たちはそれを紐解くことができているけれど、彼らの思いをこれまで充分に受け止めて来られた訳ではない。古の賢者たちのような真摯な菩薩行を実践もしていないし、四聖諦の真実すら現観することもなく、ただひたすら輪廻の苦海を彷徨いつづけ、どこに行けばよいのか、ということについても確信もなく、ただ藁を掴むような気持ちで、道を彷徨っていまここにたどり着いただけである。私たちはただこの旅に疲れ切っており、すこしばかりの休息をもとめていまここに立ち寄っているのに過ぎない。とはいえ、こんな私たちのことを弥勒仏というやさしさをその名前にもつ方は、客人としてもてなしてくれる。弥勒の法に触れる時に、そこに私たちは未来を感じ、そのやさしさに包みこ込まれて、すこしばかりの急速は再びまた、資糧の積集へと立ち上がって進むための生気をとりもどす。このやさしさは、いまたとえこの迷いの旅に疲れ果てて死ぬとも、ふたたび別の名前かもしれないが、別の場所かもしれないが、別の生物かもしれないが、ふたたび包まれこまれたいと思えるやさしさである。私たちは弥勒如来に無限の畏敬の念をもち、常に師と仰ぎ、兜率天から聞こえてくる法を心のよりどりとして生きていく。いまはまだこの地上に出現される時は熟していないけれど、なるべくはやくその時が来るように、そして様々な世を転生し常に弥勒仏に摂取される釈尊の不肖の弟子のなかの特別な存在でいつもあれるように、そんな祈願をいま再びここにたてておこう。本偈は私たちが無始以来こんな幾世を経ても常に弥勒仏を善知識として心の灯火としたいこの決意を表明したものである。