2021.09.29
ཀུན་མཁྱེན་བསྡུས་གྲྭའི་རྩ་ཚིག་

樹々のように、雲のように

クンケン・ジャムヤンシェーパ『仏教論理学概論・正理蔵』を読む・第22回
訳・文:野村正次郎

声聞・独覚・菩薩の凡夫の各々には、

資糧道・加行道位の二種の者がいる。

声聞は預流・一来・不還・阿羅漢と、

四向四果で分けるのなら八輩がいる。

独覚は麟角喩と部行とで二者がいる。

菩薩は十地によって十種の者がいる。

障礙が有る者を有情というのであり、

障礙を断じた者が聖者・覚者である。

同じ場所、同じ時間を生きているが、私たちの暮らしぶりはそれぞれである。いつものように同じ所にいる人もいるし、あちこちで活躍している人もいる。何を感じどんな暮らしているのかは、それぞれの事情によって異なっており、苦しみに喘いでいる人たち、頑張っても何一つ希望が満たされ切なさを味わっている人たち、いつも誰かに奴隷のように使われ、いつも誰かに攻撃されるかもと怯えている人たち、大体私たちと変わらない暮らしぶりの人たち、生まれつき恵まれた人たち、さまざまな場所でさまざまな暮らしをしているが、私たちはすべて生まれてきて、老いてゆき、病に苦しみ、死んでいく。この逃れられない苦難を共有している、というのがこの現実社会である。

しかし、所詮こんな現実だとただ絶望してしまう必要もない。似たような場所に似たような時にいきているが、ふと感じれば、ひょっとしたら、と希望を託せるような不思議な人たちもいる。彼らは私たちとはどこか違っていて、張り裂けそうな涙の味のする輪廻の海へとただ流されて溺れていっているわけではない。彼らはこんなところにいても、自由に泳ぎ回ることができる強者であり、時には私たちにも手を差し伸べてくれている。ひとりでもがいて泳げない時には、とりあえず落ち着いて肩の力を抜いてこうやって泳いだらいいんだよと懇切丁寧に教えてくれる。そんな彼らと運良く出会えることのできた私たちは、こんな泥の小川で溺れて、輪廻の海へと流されていくのではなく、如来の甘露に満ちた光明を放つ輝く正理の大海へと泳いでいくことを目指していかなければならない。彼らの存在は私たちにとっては何よりも価値のある宝石のような存在であり、私たちが私淑してやまない彼らは、どんな時にでも善へと意志を固めており「沙門」と呼ばれている。

彼らは私たちが転んで起き上がった時に、眼の前に聳え立つ樹々のようであり、少し手を伸ばせば私たちにも届きそうな雲のように静かにいつも天空を流れていて、私たちが上を向く時、彼らは常にそこにいてくれる。如来たちは彼らの集団のことを「僧宝」として、それはこの世のすべてのものよりも絶対的に価値があり、大切にすべきであり、私たちが仰いで見上げれば、そこから救いの光が洩れているのを感じることもできるのである。そんな彼らのことをここでは述べている。

それではそんな彼らにはどんな方々がおられるのであろうか。もちろん私たちはまだ出会ったこともない人たちのことであるから興味津々であるが、知らない人たちも多いので、釈尊がどんな人がいるのかを教えてくれていることを手がかりに少しだけ考えてみよう。

まずは釈尊と共に寂静処に暮らし、釈尊の稀有なる声を聞き、その言葉を覚え伝えてくれている人たちがいる。彼らは「声聞」と呼ばれ、その知性は如来の知性に準ずるものである。彼らのなかには元々私たちと同じような暮らしぶりをしていた者もいるが、いまはもう如来の説かれた法律にしたがって暮らしていて、常に禅定を好み、真理を追求する哲学者たちであるので、私たちが知っていた人たちとは違っている。彼らはもう一歩一歩、すこしずつ如来への道を歩み始めている。私たちよりも先にこの仏門をくぐり向こう側を歩み始めた彼らは私たちのような無駄なくだらないことばかりするのをやめている。釈尊が説かれたような暮らしぶりへとシフトして、集団で生活しながら、釈尊が説かれた言葉を常にお互いに確認しあいながら暮らしている。彼らのなかにはかなり昔の前世から修行を積んできた者もおり、三昧を好み、ただひたすら解脱の境地を目指してその生を締めくくろうとしている人たちがいる。彼らのことは「独覚」「縁覚」と呼ばれている。声聞や独覚たちは静寂を好み、清らかに暮らしているが、多くの場合に彼らが暮らしている場所はいつも同じ場所である。

これに対して、すべての衆生を救済するために、常にあちこちで活躍している人たちもいる。彼らは自分が静寂を実現するだけでは十分ではないと考え、いつも他人のためにあちこちに出現しながら、仏の境地を目指している。彼らのことを「菩薩」といい、彼らは常に自分のことよりも他者を優先し、時には自分の肉体を切り刻んで虎に施すといった常識では考えられない行動にさえでる。必要に応じてさまざまな生き物の姿でこの世に何度でも戻ってきて、常に私たちの側にいようとしてくれ、私たちを助けてくれようとしている勇者たちである。

そんな声聞・独覚・菩薩の人たちは、まずは如来の言葉をすべて理解できるようになる。それは彼らの最終的な目的地である、解脱への旅支度をはじめるためである。十二部からなる如来の善説を理解し、この旅支度をはじめた人たちは「資糧道位に入った」と呼ばれ、福徳と智慧よりなる資糧を積集しはじめ、解脱に必要なものをひとつずつ丁寧に何阿僧祇劫という長い時間をかけながら、何度も転生し獲得しはじめている。だからこそ彼らは「順解脱分を得ている人たち」とも呼ばれている。

解脱への旅支度として必要なものを集め終わり、如来の教説をことばで理解したら、今度は実際に旅に出るための準備運動をしなくてはならない。この旅は決して簡単な道のりではなく、どれだけの時間がかかって目的地に辿りつけるのかも分からない旅である。だからこそ最初に言葉だけを頼りにするのではなく、如来の言葉の意図をしっかりと確実なものとして理解しなければならない。ちょうど体操選手が本競技に臨む前に準備体操をしているのと同じように、最初は如来の言葉を自分たち自身の問題として、自分の知性を使って釈尊が説かれたその教えを心に巡らせて、ひとつひとつの意味されている如来の言葉の内容を自分自身の直接の経験として理解できるための準備体操を行なっていく。

準備体操をやって体を温めるように、解脱の道はこれである、と推理によって確定できるようになると心をあたためていく煖位という状態から頂位・忍位と次第に進化し、解脱道の実際に行うのに臨むことができる分析力をもつようになり、道から逸れてしまわないようになるので「順決択分を得た人たち」と呼ばれる。法性の真実を繰り返し推理し修習していくことで彼らの知性は洗練されてゆき、煖位・頂位・忍位と次第に進化し、最後には、この世間の最も勝れた者たちとなり「世第一法位」へとたどり着き、真実を現観し解脱を実現するための準備を整えてゆく。

資糧道・加行道位にいる人たちは、まだ真実を現観しておらず、解脱への障礙は克服できていないので、壊れゆく不安定なこの世間に私たちと同じように過ごしている。だからこそこを超克した「出世間」の者であるとか、「聖者」であるとは呼ばれない、あくまでも「凡夫」に過ぎない存在である。しかし、私たちより先に道へと入り、既に解脱への道を向かいはじめている。私たちの心にはない道が彼らの心には芽生えており、彼らは私たちより先にこの仏道を歩もうとしはじめた人たちであり、声聞・独覚・菩薩の三種の志を異にする者がいるが、資料道位・加行道位の者の二種類で、私たちの先に道を進むことに心を決めている六種類の人たちがいる。 

如来が説き示している真実を推理の力をかりなくても、明瞭に現観する知が起こる時、真実を現観する知が起こり、この時点からは世間を超越した「出世間」の者となり「聖者位」を達成する。真実を現観しはじめ、彼らは凡夫の言葉や錯覚を超えた常に正しい直観の三昧を実現している。退けるべき煩悩などの障礙を少しずつ退け、都度、所断を断じた離、滅を実現している。最初に真実を現観している時はまだ「見道位」と呼ばれ、その後その現観を繰り返し、時には三昧に入り、時にはその三昧から起き上がり、世間の出来事と見つめている時にでも清浄で静寂が決して揺らぐことのない智慧をもって、所断を次第に断じていく「修道位」を実現していく。

声聞・独覚・菩薩の聖者たちのなかで、声聞の聖者たちには解脱への流れに乗って、解脱への旅路を歩み始めている「預流」・この欲望の渦巻く世界にもう一度だけ生を受ける方である「一来」、もはや欲界へとは戻ってこられることのない「不還」、完全なる寂静であり涅槃を実現した「阿羅漢」という四種類の境位がある。このそれぞれへと向かって突き進んでいる段階である預流向・一来向・不還向・阿羅漢向の段階で進化を続けている四向の人たちと、ひとつひとつの段階を結果的に達成している預流果・一来果・不還果・阿羅漢果との四果の人たちとがいて、これらを合わせると四向四果の「八輩」がおり、彼らは解脱の城市へと向かう先輩方である。「独覚」の人たちは、集団生活をしながら暮らしている「部行独覚」と人里離れたところに行き、犀のようにたったひとりで解脱の境地を固く決して揺らぐことのない金剛のような三昧によって寂静の境地を実現する「麟角喩独覚」とがいる。菩薩たちの場合には、菩提心を起こして見道を得るまでの間は「信解行地」という境位にいるが、真実を現観し、見道位を得ると初地である歓喜地を実現して、その後、離垢・発光・焔慧・難勝・現前・遠行・不動・善慧・法雲という十地を進化してゆき、第十法雲地の菩薩は色究竟密厳浄土から、私たち一切衆生に如来と同じように所化の心相続に善なる収穫を完全にもたらしてくれる、天空の雲のような存在である。

声聞・独覚・菩薩たちは、最期の所断を断じて阿羅漢果を実現した時に「修道」から「無学道」へと移行し、すべての障礙を乗り越えて、もはや「補特伽羅」「衆生」「有情」とも呼ばれない、声聞阿羅漢・独覚阿羅漢・菩薩阿羅漢となり、菩薩の阿羅漢が、無上正等覚者つまり仏陀ということになり、声聞・独覚の阿羅漢は、寂静涅槃を実現しているのに対して、菩薩の阿羅漢は仏位を現証するのと同時に法身・受用身・変化身を同時に実現し、十方の虚空の限りに無限の数だけいつでも化身を出現させて法性の真実を説き続ける存在となっている無住処涅槃を実現しているのである。

こんな人たちのことを私たちは善なる意思をもつ「僧伽」の集団であるといい、たったひとりの聖者であっても、私たちは彼らのことをこの娑婆世界のなかで最も価値のある宝石よりも価値のあるものであると思い、彼らを救済であると思い、彼らにすべての恐怖からの守護を依頼する。彼らは常に私たち衆生たちの方を向いており、私たちが眼の前に仰いで彼らに出会いたいとすれば、いつでもすぐにそこに樹々のように、雲のように出現してくれる。

たとえ私たちがこの娑婆世界で躓いて地獄に転がり落ちてしまっても、彼らはいつも正しい道を示し続けてくれるのであり、私たちがこの娑婆世界のどこにいても決していなくなることなどない。いま私たちと同じ場所、同じ時間に存在し、いま生きているのは、私たちだけでは決してない。本偈は、私たちが仏教徒として感じて気づくべき、ここに降り注ぐ、宝石のように輝く方々からの視線の存在を教えている。

私たちに正しい道を示す先輩たちはいつでも私たちの眼の前に大きな樹のように現れる

RELATED POSTS