2021.09.22
གུང་ཐང་བསླབ་བྱ་ནོར་བུའི་གླིང་དུ་བགྲོད་པའི་ལམ་ཡིག་

枯渇しない清流をつくるための立ち位置

仏典の学習法『参学への道標』を読む・第24回
訳・文:野村正次郎

聳え立つところに川ができることもない

低いところから上の方を仰いで見上げる

すべての法友を敬い見習っていくことで

彼らの長所を着実に吸収し蓄えてゆける

高過ぎる思いはすぐにでも刈取りなさい いざ

24

険しく聳え立った崖の上に川をつくるのは困難である。川を作って自分と周りを潤そうと思うのなら、自分自身をまずは広く開けた場所に置くことからはじめてみる方が簡単であろう。低く開けた場所から、高く上の方を見上げると、小さな湧水が上から、自分の足元まで流れているのに気づくだろう。その水量のひとつひとつは少ないかも知れないが、可能なかぎり多く集めていくのなら、決して枯渇することもない、清らかな自分自身の清流を作ることができる。

いま私たちが何かを学ぼうとし、何かに取り組もうとしている時、この同じことを既に学んでいる先輩もいるし、少しだけ後から学んでいる後輩もいる。同じ時代を生き、ほぼ同じ時に学びはじめた仲間も多い。静かに周りを見渡すのならば、私たちの周りには様々な仲間が存在している。彼らは競争相手であると思う必要もないし、冷静に考えてみるのなら、彼らのすべてがいまの自分よりどこか圧倒的に優れた性質をもっていることも分かるのである。私たちはそんな人たちだけに囲まれている。何か縁があり、同じ時代を生き、出会う人がいる。彼らから私たちは清らかな性質を少しずつ吸収していくことができるだろう。私たちが少しずつすべての周囲の人たちから学ばせてもらうのなら、私たちの心には決して枯渇することもない、清流が流れ出すことができるようになるのである。

自分の立ち位置をなるべく高く見積もって、他人の欠点を数え、他人を見下そうとする限り、自の心に流れるのは煩悩に塗れた汚染水だけになってしまう。だからこそ故意に自らを低い位置に置き、不遜にならないように常に周囲に敬意をもって見上げてみる。すると自分の周りには自分が吸収すべき、自分より功徳の高い者ばかりなのである。そんな自分の周りには自分を高めるために学ばせてもらえる人ばかりがいることは、大変幸運なことである。たったの数人から何か特別なことを焦って一気に学ぼうとしても実現する可能性は低いのである。それよりもいつも私たちの近くにいて、私たちに無言で教えてくれている人たちを見て、その人たちが何故そんなことができるのか、何故その人たちは私たちよりこの点で優れているのか、こう考えながら彼らの事例をお手本として学んでいくことで、私たち自身を高めてゆくことができるのである。

私たちの知性が足りず、物事を正しく知らないのは、私たちが自分自身のことを過剰評価していることに原因がある。自分はよしとして、他人のもつ勝れた性質を学ぼうとしないのなら、大切なことなど何一つ分かることもないだろう。その限り、決して人間的にも成長することなどできないし、如来の慈悲と智慧を身につけて、すべての衆生を救済できるようになることもない。

仏教を学ぼうとする者はどんな時にでも決して奢らないようにし、常に向上心を失わないために、自分の立ち位置を低くしておかなければならない。そのためには私たちを取り囲むすべての者から清らかな流れを吸収し、自らの心に清らかな流れをつくっていくために、自分自身が持ち上がって高くなっている場所を常にその都度低くするための注意が必要となる。本偈はこの向上的な謙譲と低姿勢こそが如来の教えを学ぼうとする者に必要である、ということを教えている。

僧院では難解なテキストでも、クラスメートと楽しく問答をしながら仏典を学んでゆく


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