無明の闇を払うため聞法の焔を燃やすとも
慢心で煙を燻らせるのなら本体は包まれる
徐々に見えて来るべき善悪も見えて来ない
法となるなら心は穏やかに続くはずである
空ろな穂のように頭を高くすべきではない いざ
如来のことばを学んでゆき、如来の意向を知っていき、自分の問題として受け止めて、自分の小心に定着させていくこと、つまり仏教を学んでゆくこと、これは決して簡単なことではない。経帙を紐解いて、善知識から聞法し、自分は少しずつ仏典が分かってきたという気になっていくことは悪いことではないが、実はこれは慢心による錯覚に過ぎない場合が多い。自己の足りない知性で如来のことばや祖師たちの教えを解釈して、彼らの意向を理解したと思っても十分ではないことが殆どであり、仏教を継続して学ぶための最大の妨げとなるもの、それは慢心である。
もちろん師僧たちは正しい解釈を示してくれるのだし、それをある程度の努力を重ねれば、自分もそういう解釈をすべきだと分かるようになる。多少深く考えていければ、その理解は客観的にも正しいものであると錯覚してくるものである。しかしこの錯覚が厄介なのは、それが慢心によるものであるとは気づかないまま、自己の解釈がよく見えるというバイアスがかかり、それが原因となり、自ら他者の声に耳を塞いでしまい、論理的な思考を繰り返さないまま、自分が触れた意見に飛びついて、根拠となる安定した論理的な分析を欠いたまま、自己の見解を補うため同調意見を反芻し偏見に偏見を重ね、妄想を膨らませてしまう危険性がある。自己中心的な理解から来る慢心は、自分自身の知性の発展を止め、無明の闇を明るくするのではなく、自分自身の慢心という煙によって、自分自身を煙に巻き、無知を取り除き明晰な知性を得るのではなく、意識を朦朧とさせて行くべき道を見失い破滅へと至らしめるものである。
本来仏教を学ぶのは、いまのこの私たちの心を成長させ勝れた人物になるためである。しかるにたとえ間違っている意見であっても、その誤った考え方は、自らの思想を洗練させるために必要となるものである。誤った考えにもそれに耳を傾け、その学説を自分自身でよく熟考し、正しい意見を手がかりに誤った考えを排除していくことができなければ、自らの進むべき道を正しく認識できるようには決してなることもない。特定の考え方に固執し、異論に耳を傾けず、他者の声を拒絶しては、そもそも利他の活動などできるようになることもないし、そのようなことを繰り返せば、心を融通無碍に発展させることは望めないし、心に闇ばかり増幅させてしまうことになる。
自分の見方が正しいと錯覚している限り、自分の心自身がもっている正しい側面は誇張したくなり、自分の短所や誤った考えは隠蔽したくなる。それ故何かを学ぼうとする時、私たちは自己を過大評価することなく、慢心に支配されないよう、細心の注意を払わなくてはならない。だからこそどんな時にでも心に清らかな流れをつくるため、まずは自分自身の心の動きに対して自分自身できちんとした監視体制を築いておかないといけない。
仏法とは自分の心の糧であり、自分の心を映し出す鏡である。仏法を知り、それが真に心の鏡として機能しているのならば、私たちの心には自然と節度が芽生えてゆき、小さな日常的な所作にいたるまで自らを律して、如来や菩薩たちと同じような行動や言動や思考法を実践できるようになる。心のなかに慢心や妄想が膨らんでいる限り、仏法を学んでも、自己中心的な思考法に執われている限りは、心は常に落ち着くこともなく、不安や悩みは解消できないし、破滅へと向かう以外には実現すべき無限の慈悲や解脱や一切智を見失ってしまうことになる。このようなことから、仏教を学ぼうとする時には、必ず自己を過大評価してしまう慢心を捨てなければならないのである。
釈尊が霊鷲山で般若経を説かれる時に、自ら法座を作ってそれを三度右繞して、三礼してから法座につき甚深広大なる無相法輪を転じられたと言う故事は有名であるが、何か仏事を行う上で、最初に身口意の礼拝を行うのは、この慢心を抑えるため、そしてその法そのものが崇敬の念をもって取り扱わなければならない、ということを教えるためである。
たとえば目上の人に道端であった時や話をする機会には、まずは丁寧に挨拶をすることが礼儀作法として必要である。目上の人に頭も下げないのに、自分勝手に給料を倍にしてほしいと上司に懇願しようとも、下らない科目だと思って試験勉強もせずに先生に試験に合格にさせて欲しいといくら云おうとも、あまりにも身勝手で可哀想な人だなと思われて、苦笑されるだけであり、給料が倍になることも試験に合格できることも全く期待できないのである。
同様に、私たちは仏前できちんと自分の慢心を反省し、それを身口意の礼拝という業で自ら表明し、その上で供養をしなければならないのであって、供養をし、自分のいままでの間違いを反省し懺悔して、もうこれまでの態度を反省します、と誓った上で、他にも素晴らしいことをしている人々のことを嫉妬するのではなく、きちんと随喜した上で、申し訳ありませんがお願いしたいことがあります、と断った上で、その上ではじめて何かお願いごとをしなくてはならない。これが礼拝・供養・懺悔・随喜・勧請・誓願という順序なのである。礼拝も供養もせずにお願いごとだけしても効果は期待できないのは、通常の私たちの社会での人間関係と同じなのであり、私たちは如来や菩薩たちと関わろうとする時には、必ずその関わり方の作法を正しくしなくてはならないのである。
道端に地蔵菩薩がおられるのを見かければ、たとえ急いでいても、そこに本当にお地蔵さまがおられると思って、一瞬でも心のなかで敬意を払わなければならない。物乞いをしている者を見た時にでも、因果応報を考えて、彼らにも敬意を払わなければならない。害虫とみなされている者や凶悪犯と言われる人々を見たときにでも、自己中心的な考えから嫌悪感を抱くのではなく、業果に苦しむ衆生に対する慈悲心を修習しなくてはならない。どんな時でも私たちに法性の真実を示してくれる善知識とその教法に対しては畏敬の念を失ってはならないのであり、どんな時にもどんな衆生に対しても常に慈悲心を修習しなくてはならないのである。そしてそのような心持ちに一瞬にしてなれるようになること、これが法を知る、ということであり、教えが分かっているということである。
日本でも「実のある穂ほど頭を垂れる」というが、本偈も全く同じことを言っている。どんなに学問を積もうとも、どんなに知識を吸収しようとも、どんなに社会的な地位が高かろうとも、名声や権威があろうとも、如来の真意を汲めていない限り、頭の中身は空洞のままである。中身のない穂は自分こそ、と自己を過大に高く評価し、自己を誇張して宣伝し、心から頭を下げはしない。これに対して、如来の教えの大切さを理解し、それを自らのものとしてその価値を正しくしっており、低頭慇懃な姿勢こそ、如来たちの言葉を有難く拝聴しつづけた心の奥底から湧き上がった姿勢にほかならない。そしてその表面化している如来の言葉、祖師たちの言葉のもっている無限の価値を正しく理解している、ということを表しているのである。仏の教えは、私たちがそれに触れ、それを学び、ひとりで死んでいく時に拠り所となる、何よりもかけがえのない資産であり、来世まで持っていくことができる私たちの最も大切にしないといけない財産である。それを自らの慢心によって無きものとして、破滅へと自らを導いていくべきでは決してない。すべての仏事は礼拝にはじまるのはこのためである。本偈は、私たちが如来のことばにどのように対峙すればよいのか、というその正しい作法と姿勢を教えるものである。