それにはまた三有があるが
悪趣とは地獄など三種があり
善趣とは人間と六欲天とであり
この十種の者が欲界の者である
精神でも物質でもないものは心不相応行と呼ばれ、そこには様々な感情や思考などの心相応行という精神的なものと、たとえば何かを獲得している状態である「得」などの、精神的ではないが無常な存在であるが、あり「人」とか「生物」と呼ばれるものもこれに属している、ということはこれまで見てきた通りである。これには享受している身体と精神との状態の違いによって欲界・色界・無色界の「三界」あるいは「三有」とに分類され、ここでの「有」とは精神と身体が結合して、生命体として存在している状態のもののことを表している。死んでいく状態を「死有」とし、死後別の身体に精神が転移するまでの仮の状態である「中有」、別の身体へと精神が定着している状態である「生有」というように時間的経緯によって分けることもできるが、通常は十二縁起の「有」の後には「生」「老死」と数えるように、「三有」という場合には、「三界」と同義のものを表す心と身体の所依の区別として欲界・色界・無色界と同様なものを意味して用いられる。ここではまずそれらの代表的なものである欲界をあげて、次の詩偈からはこの各々のものを説明している。
私たちがいるこの場は、特に物質である感官の対象を欲して、それを享受することによって心と身体の結束状態を維持することができるので「欲界」と呼ばれ、「欲界」には地獄道・餓鬼・畜生道・人間道・天道/天界道の六道といった種の区別があり、この「道」というのはそこを移動し、そこに行き、そこで動きながら活動をしている者、という意味であり、これを「趣」と翻訳することもあるが地獄・餓鬼・畜生は「悪趣」「三悪趣」「三悪道」と呼ばれる、生来享受している苦痛が非常に顕著な生命体ということになる。一方で、人間道・天道/天界道の二種は生来「善趣」と呼ばれるものであり、この種の生命体は悪趣とは異なり生来苦痛の苦しみを多く享受している訳ではなく、悪趣と比較すれば楽を多く享受しており、生まれたその瞬間から何か苦痛に悶えて苦しんでいるわけではないが、そのような生を受けていること自体が、煩悩と業によって支配されている状態であり、苦痛である「苦苦」はなくとも、快感である「壊苦」があったり、快楽でも不快でもない、生まれていること自体の「行苦」という苦しみを享受している。
仏教用語としては漢字で「人」と翻訳されている言葉は、原語は「プドガラ」(pudgala)という「補特伽羅」として音写される生物自体を表す場合と、生物学的なホモサピエンスとしての「マヌ」(manu)という「人」として分類されるものを表す場合との二つがあり、前者の場合には「ひと」と訓読みすることはできず「にん」と読まねばならないが、後者の場合には「ひと」であるので、「人」と書いて「ひと」と読むことはできる。ただし衆生済度とか人への慈悲や愛などが説かれている場合には、これは前者の意味で使われているのであり、後者の生物学的な人類のみに限ったものを意味している訳ではないことには注意が必要である。前者の場合には「衆生」「有情」「趣」「生者」「命者」というのと同義であり、身体のサイズは微生物のように人間の視覚では視認できないよう極小のものから、月や太陽のような惑星のようにその動きも活発ではないので衆生や人であると理解しづらいものまでいるが、それはあくまでも視覚の錯覚から起こる思い込みに過ぎない。
これは私たちが毎日歩いているこの地球上の地面の土やアスファルトが動かないから、それは生物ではない、と思い込んでいるのに過ぎないのであり、我々の経験値が足りないことから、観測不能なだけであり、特定の主体が観測不可能であるからといって、その存在自体がないのではなく、その存在には観測方法が適用できないことから、存在性が確定できない、ということが起こっているのである、ということをダルマキールティは知覚できないものの非認識証因というものを説明する時に詳細に論じている。つまり仏教論理学的な理解に従って言えば、銀河系が衆生かどうかを我々は実証できないが、その可能性は否定できないし、宇宙人というものが、小さな昆虫のような姿をしていて、常にこの地球上でウロウロしているかもしれない可能性は全く否定できないし、そのような観測不可能なものに対しては、観測不能であることは分かるが、それが存在しているのかどうか、ということは特定の場や話者に限定しない限りにおいて、全く確定できないということになる。
「プドガラ」「補特伽羅」「衆生」「有情」について知るべきことは、私たちもその一員であると同じく、私たち以外にも様々な種類や形の「プドガラ」「補特伽羅」「衆生」「有情」が存在している、ということであり、同時に私たち以外の「他人」つまり他の「プドガラ」「補特伽羅」「衆生」「有情」も私たち同じひとつの生命体であり、すべてが幸せを切望し、苦痛を望んでいないのであり、望んでいない苦痛を味わいながら、動き周り、「器世間」と呼ばれる狭い場所に閉じ込められて「動き回っている世間のものたち」(動世間)「感情のある者たち」(有情世間)「身体と心のつながりを何よりも大切にしている者たち」「生老病死を繰り返しながら次から次へと他の姿へと巡りめぐっている輪廻である」、すなわち苦しんでいる者たちである、ということである。そしてこの苦しんでいる者たちは、いまはお互い顔見知りでもないし、時にはこちら側が、時にはそちら側が眼を背けたくなるような姿で生まれてきているかもしれないが、無限の過去をたどっていければ、彼らすべての衆生が私たちひとりひとりと密接な関係をもっていた自分たちの「母」であったことが一度もない恩深い存在である者たちばかりである、ということである。
母なる衆生というこの考え方は、菩提心を起こすための第一歩であり、すべての衆生をひとつの存在としてみて、いま姿形は違うかも知れないがかつては「同じ人間」でなかったものは誰ひとりとしていないのであり、同じ人間であるだけではなく、私たちを生み育て、自分たちよりも私たちのことを大切にして、時には「人の心は闇にはあらねども」と歌われるように狂乱状態になりながら、私たを特別視していた者たちばかりなのである。
「人」とは何か、この問いはさまざまな宗教でさまざまに語られ、さまざまな哲学者たちが様々に論じてきたテーマである。彼らがどんなことを言っていようとも、足元の事実としては、私たちは「人」であり、他の「人」に依存してここに暮らしているのであり、他の生物がいなければ、決して生きていくことができない。私たち人類と同じような「人」、そしてそのなかでも欲の対象を求めて悶え苦しみながら生きている者たちが、地獄・餓鬼・畜生・人間・六欲天といるが、大きな意味で「人種差別」をすることなく、等しく平等に取扱い、特定の「人種」を好ましく思うことから優遇したり優勢であることを主張したり、社会・世間で差別して虐待したりしてはならず、すべて等しく慈悲や愛の対象である、ということを理解してはじめて私たち「人間」たちがいま少しだけ違う姿をしている他の衆生たち、「他人」のこと慮ることができるようになる。仏教を学ぶ上で「人」とはそのようなものであり、そのことを理解できなければ、人でなし、ということになるのだろう。
チベットの僧院では、小さな出家したばかりの僧侶たちに、釈尊が「人のことを自分と同じような人であるという基準で測ってはならない、人のことは私と同じように如来と同じように見なして判断しなさい」と説かれたこの教えを最初に教えていく。他の人が自分に対して何か嫌なことをしてきても、他の人のことを気に入らなくても、同じ「人」「衆生」であり、彼らがジャータカの物語のように如来たちが菩薩の姿として私たちに何かを教えるために、やってきているのかも知れない、というこの意識を決して忘れないように師僧たちは教えていく。私たちは「人」であり、「人」に囲まれ生きているが、「人」とは何か、というこの問いをいつも忘れがちである。しかしこの問いをする時、私たちは周りに「人」が無限にいることに気づくのであり、非暴力や慈悲という教えが意味しようとしたことを現実に感じていくことができる。「人」というのはそんなに孤独でもないし、「人」であることは意外にいいものである。特に生物学的な「人」「人類」である、というのはかなりいい環境だということを感じられる時、私たちは「人」であるということの賢きこの劫を感じとることができるだろう。