欲を満たすために悶えて傷つけることもない
眠ってしまうこともなく 心の重圧も退けた
心や体に走った激痛からもいまは逃げだした
上禅定の力によって永く安らかに過ごせている
色・無色の天界の境地を得ていても
行苦の呪縛から逃れられた訳ではない
過去世の禅定が引き出したこれが尽きる時
また下へ堕ちて輪廻を巡ってゆくのだろう
いまの私たち人間が住んでいる欲界の神々とは、私たちが通常望んでいるすべての希望を実現したものである。しかし彼らは欲望をすべて断ち切ったわけでもなく、欲望がある限り、それは永遠に満たされることはなく、次から次へと欲望の対象を追い求めていかなくてはならない、という悲劇的な境涯にある。それでは欲望を享受することに依存しなくてよい、色界や無色界の神々へと生まれた場合には、苦しみはないのか、といえばそうではない。
色界や無色界は禅定を修習した結果として、欲望に依存しなくてはいいし、無色界の衆生に生まれた場合には、通常私たちがもっている荒い物質でできた肉体をもたなくてもよいので、微細な物質と精神のみでできている身体をもっており、心も欲界の衆生とは異なり、欲望を満たすために試行錯誤をしたり、他の衆生を傷つける必要もない。欲望が渦巻く世界では、常に他の衆生を欲望の対象として享受しなければならないので、他者への暴力的な行為を完全に断ち切ることは難しい。しかし禅定を何世代によって繰り替えし修習したことにより、初禅天から第四禅天などの衆生として生まれる場合には、常に禅定状態にあるのであり、身体能力も精神能力も大変高く、欲望の世界のように身体を消耗したことで眠りにつく必要もない。心は安定しており、静かに永遠のような時を禅定状態によって過ごしている。無色界の空無辺処・識無辺処・無所有処・非想非非想処(有頂天)などに生まれる場合には、物質的肉体である色蘊ももつ必要がないので、精神的にも肉体的にも苦痛を味わうことからは完全に解放されているのである。この境地は永遠のようであり、常に安定しており、心は明晰でまるで仏や阿羅漢になったり、解脱してしまったかのような錯覚に陥ってしまうのである。
しかしながらいくら色界や無色界の天に生まれたとしても、それはあくまでも業と煩悩に支配されたまま、自分の意思でそこに生まれているわけではなく、物質のみの色界の天の身体であれ、微細な物質だけの無色界の天の身体であれ、それは常に壊れていく無常なる性質をもち、色界・無色界に転生しても死ななくなるわけではないので、生老病死の苦しみをはじめとし、特に通常は何も感じていないがそれは苦しみにほかならないという行苦があることは事実なのである。色界や無色界の天に過去世の何代に渡ってせっかく得ているこの身体も、この業が尽きてしまうときには、捨て去って他の生へと転がり落ちてゆき、ある時は地獄へと生まれ、、ある時は餓鬼へと生まれ、ある時は畜生道へと生まれ、ある時は人間に、またある時は天へと生まれるというこの苦しみの連鎖が永遠と続いていくのである。
私たち人間は、欲界の多くの神々の存在も見たこともないし、色界や無色界の天をも見たこともない。また地獄を直接見ることもできないし、餓鬼の世界をいま直接見ることはできない。それらの様子は仏弟子たちで神通力が有る者たちがそこまでいって様子を釈尊に報告したことなどが経典のなかで説かれているだけである。しかしこれと同じことは月の裏側や火星や木星や土星の様子にしても同じことが言える。私たち地球上の人間はまだ誰も火星や木星や土星に行ったことはないけれども、観測衛星を打ち上げて、その様子を伺ったり、地球から観測してさまざまな推測をしながら、その話をしているだけである。そんな宇宙の話のなかで、宇宙のなかにはガスと電波でできている知性のある生き物がいるのではないか、ということはかなり昔から言われており、昨年は金星上空の大気中に生命体が漂っている可能性が高いという報告もなされている。これが無色界の天かどうかは特定できないが、そのような存在があることだけは最先端の科学によっても分析されていることであり、銀河系に意思をもつ生命体がどれだけいるか、ということですら、いまの私たち人類には未知の領域である。
しかしながら生命体がある限りにおいて、それは精神と物質が結合した状態であり、その限りにおいて、行苦、すなわち生命体であること自体のもつ、根源的性質である生老病死や様々な苦しみがあることには変わりはない。そして私たちがいまいるのはこの地球という惑星であり、私たちは人類であり、この地球上に釈尊が降りたって生死を超越する解脱への道を示したことには変わりはない。だからこそ、私たちは金星の周りを漂うような生命体へ転生しようとも、銀河系の彼方の惑星に生まれようとも、虚空無辺といわれるこの世界のすべての生命体の苦しみを解放するために、個々の人間が常に仏の境地を目指して、自らの心を洗練させていかなければならないのである。銀河系の彼方の惑星に生まれてしまうよりは、この地球上で再び一同に会しながら、よりよい自己とその周囲の衆生に幸せがもたらされる活動をし、それを共に享受する方がよいだろう。以前釈尊の伝記の時にも触れたように、釈尊が修行時代に無色界などの境地を実現する外道の師匠を凌駕するエピソードが示すように、私たちがよりよい生を生きるための場所は、ここだけなのであり、未来において再び法輪を転じてくれる弥勒仏がここに釈尊の後継者としてブッダガヤに出現するまでの間は、すこしずついい人間になりながら、多少辛いこともあるが、この欲界のこの場所で過ごし続ける、というのもそれほど悪くない選択肢のような気がする。