相応・不相応で行は二つある
心相応行には五十三種がある
不相応行は先述のものであり
人もまたこれにほかならない
五蘊のうちの物質である色蘊・感覚や知そのものである識蘊、これに経験を受蘊として、それが一体何かを表象している印象である想蘊という色・受・想・識の四つどれでもないすべての無常である有為のことを「行」と呼び、その多くを集めて仕分けしたものが「行蘊」である。単独の受・想も行のひとつではあるが、これは塊状に集積されたものは、私たちの人格を構成し、私たちの生を作用する要素として重要であるので、複数のものを集めて考える場合には「受蘊」「想蘊」とを別途特定して考えなければならないことは前節で説明した通りである。
「行」の原語は「saṃskāra」であり、「有為」の原語は「saṃskṛta」であり、「有為」の方は「集めて作ったもの」という行為の完了形で表現されるのに対して、「行」の方は「集めて作るもの」という形で表現され、集めて作ったものである「有為」には色・受・想・識の四つのものが含まれるが、「行」の方はこの四蘊のいずれにも仕分けできない「集めて作るもの」「集めて作りだすもの」それ自体を意味しており、これは行為そのものである業や行為主体のことを表している。(1)通常「諸行無常」という場合には正しくは「一切の有為は無常である」と表現しなければならず、もちろん「集めて作るもの」であるという意味での「諸行」は無常であるが、仏教の根本的な命題を表す場合には、「一切の有為は無常である」と表現すべきである。しかしながらこの用語を概念の設定範囲に異同があり使われている例は、比較的古い時代からあるものであるが、漢訳ではその両者を明確に区別する訳語としては「有為」「行」というのがあり、チベット語はサンスクリット語と同じように微妙な音の違いしかない。
たとえば、美味しい料理という味処という物質をつくりだすためには、ほかの材料となる色蘊である材料や火力や包丁などを事前に準備しなくてはならず、この味覚は快感であるという快楽の経験である受蘊や、この調味料は美味しいと物質にして印象をもつ想蘊が必要であり、料理を食べる人の味覚という識蘊も必要である。しかしながら、いくら材料や経験や印象や感覚があろうとも、実際にそれらに関与して、材料を調理し、それを美しい器に盛り付けして、食べてくれる人のところに運んでいくという行為や行為主体がなければ、料理というひとつの出来事それ自体は成立しない。材料だけあって料理をつくらなくても食べる人が勝手に美味しいという味覚を味わうことなどできないし、味覚もあり、材料があっても、台所で材料を丁寧に切り、その切るための包丁をきちんと作ってくれる職人がいなければ、料理というひとつの出来事などありえないのである。行為そのものや行為主体は物質でもそれを享受する感覚でもないが、「この間食べたあの料理はとても美味しかったので、あの料理をこうやって作ろう」という創意工夫をしたり、「今日は面倒くさいので、適当に作っておけばいいや」と妥協したりする精神的なものは必要であるし、「よし、この人のために料理を作ろう」と思う意思や、そうした精神的なものがあっても、実際に材料に手を伸ばしたりして作る、という行為をする行為主体である料理人がいなければ、料理が自然にできる訳ではない。料理人も料理を作りたいという意思という精神的なものと、料理人や料理をする行為といった精神的でもない、単なる行為や行為者がいなければ、料理という「集めて作ったもの」(有為)が完成することはない。だからこそ「集めて作ったもの」(有為)が出来上がるためには、「集めて作る」(行)というものが必要となるのであり、これを私たちは日常的にこのことを複合的に考えているので「行蘊」というものが私たちを構成している重要な要素であると知らなければならない。そしてこれが「行蘊」ということになるのである。
この「集めて作る」(行)ということにも「こういう料理は美味しいはずである」「美味しい料理を作ろう」といった精神的なものと料理人という精神的ではないものとがある。前者は心に対応した特定の心の動きであり、これを「心所」と呼び、心や感覚と連動して特定のはたらきをしているので、これらは「心相応行」という。一方心の動きとは無関係な存在である料理人などは「心不相応行」という。たとえば料理の腕利きの料理人がいても、彼が「よしあの人のことは嫌いなので、嘔吐したくなるような不味い料理をつくってやろう」と思うか「あの人が美味しいといって喜んでくれるために、できるだけ丁寧に美味しい料理を作ろう」と思うのかによって、結果的に出来上がる料理という出来事には大きな違いがでてくる。逆に「どんなに美味しい料理を作ってあげたい」と素晴らしい意思をもっていたとしても、いままで包丁も鍋も使った経験もない人がいきなり腕利きの料理人のような素晴らしい料理をつくることもできない。だからこそ同じ料理をつくるという行為でも、心の動きに対応している「心相応行」とそれとは無関係な「心不相応行」との区別を私たちは正確に理解しなければならない。
心相応行とは何か
心相応行はこのような五感や思考などに対応する心の特定の動きを分類したものであるが、これにはここでは五十三種があると説かれている。五十三種の心所法とは、五遍行のうちの受・想は、複数別立てして受蘊・想蘊で数えているので三遍行となり、五別境、十一善法、六根本煩悩のうちの見を除いた五つと、五種の見で五つ、二十隋煩悩、四不定の合計五十三の心所があるがこの五十一心所は仏教の基礎教理として極めて重要な心の動きであるので、ここで簡潔に概括しておこう。
五遍行
まずは、心による経験である「受」、表象である「想」とがある。さらに心を対象へと向かわせている「思」、心を対象に向かわせて、その対象に対して働きかけをしている「作意」、心を対象に接触させたり、接触状態から離脱させたりする「触」というこの五つのものは、常時不特定のすべての対象に対して心すなわち識を向かわせているものであるので、これらは「遍行」と呼ばれ、「五遍行」がある。ただし、このうち「受」「想」は五蘊のうちの「受蘊」「想蘊」として数えるので、五蘊の行蘊の五十三心所を数えるときにはここでは数えないのは注意が必要である。
五別境
これに対して、心が特定の対象を志向して追いかけようとする意欲である「欲」、心が一度特定の対象を限定することができて、その対象にほかならない、と思い働きかける「勝解」、ある感覚や経験や表象や思考を記憶に留めてそのことを常に想起している記憶である「念」、心で一度考えた対象をその対象だけへと集中的に心が向かい他の対象へと揺らぐことのない集中状態である「三摩地・定」、多くのものを混同してしまうことはなく、特定の対象をこれであると思いつつ、そこに心を働かせている知性である「慧」というこの五つのものは、「遍行」とは異なり、それぞれ特定の個別的な対象にのみ働きかけようとするものであるので「別境」と呼ばれ、「五別境」がある。
これらの遍行や別境はその対象が何か、ということによって善なる心の動きなのか、不善なる心の動きなのか、そのどちらでもないものなのか、ということは特に決まっているわけではない。たとえば、銀行強盗をしようと思いながら心を巡らせているときには、最終的に悪業を積むが、その思考の過程で人質をとって人質に危害を加えたりしようとするのはやめておこう、という善なる「欲」や「慧」がはたらいてはいるが、銀行強盗をしようと考えている「作意」が常に働いているので、善なる「欲」や「慧」自体は善業であるので、それは楽受をもたらすが、全体的な計画としては悪業であるので、苦受しかもたらさないというように、遍行や別境はそれが心をどのような対象に向けていくのかということによって、その心境の結果としてもたらされるものも様々なものがあることになる。
十一善
これに対して常に他者に幸せを与えよう、快感を与えたい、と思って心を動かしているものは善なる心所であり、これは常に結果として楽受をもたらしてくれるものである。たとえば仏法僧に対してとか因果応報などについて何となく敬意をもち、それへの畏敬の念をもっていること、それを積極的に求めること、それらの功徳を理解した上で、確信的な理解をもっている「信」とがあるが、これは絶対的に善なる心の動きであるということにある。
この善には十一があり、「信」以外には、自分自身のことを考えて悪しき行いを躊躇しようとする「慚」、他者のことを考えて悪しき行いを慎もうとする「愧」、生活用品などに執着していない状態である「無貪」、苦しみや嫌なことに対してもそれを排除してしまいたいという暴力的で破壊的な感情をもたないことである「無嗔」、対象に対して客観的な視点を持ち無知ではない状態である「無癡」、善なるものを喜びとして、それを追い求めようとする「精進」、身体的にも精神的にも常に身軽であり、いつでも善なる行為へと突き進めるような心の軽やかさである「軽安」、為すべきことを慎むべきことをしっかりと認識していることである「不放逸」、心を必要以上に高揚させたり、落ち込んだりすることもなく心が常に正しく安定した状態にあることである「捨」、他者に対して力を誇示しようとしない非暴力の精神である「不害」というこれらの十一の感情は、絶対的に他者に対して思いやり、自己の利益よりも他者の利益を優先しようとする感情であり、この反対の感情を抑え込むために役立つ感情であるので「善」である、「十一善」の心所と呼ばれるものであり、私たちができるだけこれらの「善」なる感情をもつことにより、私たちはより幸せになれるし、周囲の生きとし生けるものたちも幸せになることができる幸福の源にほかならない。
六根本煩悩と五見
この幸福の源である善なる感情の逆のものであり、常に不幸を生み出し、不幸や苦しみの原因となる感情のことを「根本煩悩」という。
この根本煩悩には、自分自身の心が対象としているものを過剰評価してそこから離れたくないと執着している感情である「貪」、苦しみや苦しみが起こってくる源となっているものや他の生き物に対して嫌悪感を抱いている嫌悪感や憎悪である「瞋」、自己愛により、自己をもっとも価値的に高いものとして、その延長線上から差別的に他の衆生を自己より低い存在であると認識する自己中心型の差別意識である「慢」、心が対象としているものに対し、誤った理解や疑念をもったり偏見をもったりし対象をはっきりと知ることができていない「無明」、心が対象とするものに判断を保留し続けて、善悪の判断を保留し、どちらかも決めかねている真実や事実に対する猜疑心である「疑」とでまずは、貪・瞋・無明(痴)と慢・疑で五つがある。
これに根本煩悩のもうひとつとして「見」があるが、これには五種類であり、更に「有身見」、それにもとづいてこれは永遠の実在であるとか、完全なる無であると捉えてしまう常辺と断辺へと固執している「辺見」、解脱に至るための方法である四聖諦や因果応報などをなきものであると捉えてしまう「邪見」、大した考えでもないのにその考えこそが最高であると考えてしまう「見取見」、苦行や沐浴や体操などといった解脱を実現する原因となるものでも、それを実現させるものでもない誤った修行法を正しいと考えて、本来は禁じられている誤った実践を行っている「戒禁取見」という五つの誤った考えである「見」がある。
貪・瞋・無明(痴)と慢・疑と見の六つは六根本煩悩であり、これらの感情は様々に私たちの心を混乱させ、悶えさえ、苦しみそのものしか生み出さない悪しき感情であり、我々が仏教を実践する時に最も重要な課題は、この根本煩悩を如何に克服するのか、ということになる。これらの根本煩悩はひとつひとつの感情が様々な形で問題を起こしていくのであり、すべての問題の根源でもあるので、根本煩悩と呼ばれている。
二十随煩悩
根本煩悩は、ひとつひとつが様々な多くの悪しき結果や問題を生み出すが、これよりも若干問題の程度がそこまで深刻ではなく複合的な結果を生み出すのではなく、個々の問題を引き起こす煩悩のことを「随煩悩」といいそれには二十種がある。
それは相手を攻撃し害そうとする破壊的で暴力的な感情である「忿」、不快な出来事に対して何らかの反撃や報復をしようとしつづけている「恨」、自分の間違いや欠点を隠蔽したいという感情である「覆」、気に入らないことに対して報復するために思いを巡らせている「悩」、他者が自分よりも良い点があることに耐えられない嫉妬心たる「嫉」、自己の所有物等に執着し、他者へ分け与えようとしたくない「慳」、他者を欺くために、長所のないものを長所があると偽った情報を故意に与えようとする「誑」、自分自身の不都合なことや欠点を他者に知られないように隠蔽したいと思っている「諂」、自分には好都合なことを過度に喜びとしてしまう「憍」、他者に対する思いやりもなく、他者を貶め破滅させようとする「害」、自分自身のことを考えて悪しき行いを躊躇しようとしない「無慚」、他者のことを考えて悪しき行いを慎もうともしないする「無愧」、心で対象化している対象を明瞭に知ることができず、漠然と心が鬱状態となっている「惛沈」、その反対に心が安定していなく、過度な執着心で興奮状態となった躁状態である「掉挙」、他者の利益を実現する活動である善への不信感を抱き、為によって不信感をもったり、意志薄弱となったり、信頼できなくなったりしている「不信」、善を喜びとすることもなく、無意味なことを喜びとして、本来なすべきことへと取り組まず、先送りにしたり、他のことをしたり、自分にはできないと卑下したりして言い訳をしている「懈怠」、為すべきことと慎むべきこと思うことはなく、好き勝手に思うとおりに心を慎むことなく恣いままの状態にしている「放逸」、煩悩の対象を追い求めてしまい、なすべき善なる対象の記憶を失いって忘却している「失念」、どのような活動をしたらよいのかも分かっていないのにも関わらず、その活動に従事している状態である「不正知」、執着心によって煩悩の対象となるものに対して心が興奮させている「散乱」という。
これらの二十種類の感情は、根本煩悩ほどの様々な問題を引き起こすわけではないが、煩悩のように我々を煩悶させ、精神の健康的な安定状態を掻き乱す、煩悩に近いようなものであるので、「随煩悩」と呼ばれている。
以上の根本煩悩と隋煩悩は不善であり、その思いをもっているだけで悪業を積集しており、これがさまざまな不幸の原因であり、さまざまな問題の原因にとなるものである。五遍行・五別境は善・不善・無記のいずれかの対象に対して心を動かせてはたらきかけているので、そのもの自体は善でも不善でもないが、十一善は、他の衆生の幸福を望む感情であるのですべて善であり、根本煩悩や随煩悩は他者よりも自己を優先的に考える自己愛から生まれ、他者の幸福を奪おうとするあるいは妨げるものであるので、すべて不善である。
四不定
これら以外に、その精神状態それ自体が善にも不善にもなり得るものがあり、善・不善が決まっているわけではないものを「不定法」という。「不定法」には、感覚が対象へと向かうことを自分の意思に反して停止してしまう状態が「睡眠」であり、為すべきことと為してはならないことのいずれかに意思に反して気にかかり悪い方向に行ってしまうのではないかと不安になって後悔し反省している「惡作」、様々なことを次から次へと考えていっている「尋」、心を細分化しながら分析している「伺」という睡眠・惡作・尋・伺の四つは、その感情が起こる動機やその感情と同居する感情がどのようなものかによって、善・不善・無記のどれかへと変わってゆくものであるので「不定」というのであり、「四不定」がある。
以上が五十三種の心相応行のであり、これらは眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識そのものではないが、それらが様々な要素を集めて作り出していき、心が対象に対して反応していくことでさまざまなものを作り出し、作り出す主主体となるので「心相応行」と呼ばれ、これは対象を知ろうとしている心そのものではないが、その心とともに働いているものであり、様々な出来事を作り出していくので、「集めて作るもの」(行)であり、これらは精神の状態であり、心の動きそのものである。
心不相応行と人
精神でも物質でもない、集めて作るもの」(行)を心不相応行と呼ぶが、これには「不相応行には、得・非得・同分と二定・命・生住異滅、名身等の十四がある」と以前の詩偈の箇所で説明したので〔以前の記事はこちらから〕、ここでは、それら以外に人・生者・生きもの・衆生、輪廻などと呼ばれる所謂様々な生命体それ自体も心不相応行であり、それらは具体的には、地獄・餓鬼・畜生・阿修羅・人・天という六道があり、生まれてくる時の生体が拠り所とする「世界」の違いによって、欲界・色界・無色界の三界があるが、これについては次の詩で解説されているので、その詳細は次の記事で説明したい。
心所法の重要性
今回の詩偈を読むにあたり、五十三種の心相応行という心所法を概括したが、これらを五十一と数える場合や毘婆沙師の伝統を『阿毘達磨倶舎論』を通じて学ぶ場合には、四十六種類の心所法を数えるので、若干の異同はあるが、これらはすべて私たちの感情や思考をパターンかして分析したものであり、仏教における心に関する分析として基本中の基本の教義であり、毘婆沙師であろうと経量部であろうと、唯識派であろうと、中観派であろうと、顕教であろうと密教であろうと、この心の動きに関する分析や区別を知らずして、仏教を正しく理解することなどできない。我が国ではこの心所法を奈良時代から『倶舎論』や『成唯識論』などを中心に学ぶ伝統が続いており、ひとつひとつの用語も幸い玄奘三蔵法師の訳語によって、正確に知ることができる。
さらにこれらの心所法のそれぞれのものをより深く正確に知ることは、私たち自身が通常自分たちの精神の表層に起こってきている様々な心理状態を冷静に知ることであり、特に仏教では人間以外のすべての衆生がこのような感情や心の動きをもっているとしており、その都度、その人にどのような心所が強烈に表面化しているのか、ということの違いはあるとしても、自分自身がいま何をどのように感じているのか、その感情はどのようなものか、その感情は私たちに幸せをもたらせてくれるものなのか、私たちを破滅へと導いていく煩悩なのか、これを毎日のさまざまな心の動きを振り返って、反省し、自らの心を統御して、よりよき生を営むために、極めて重要な心の分析であり、ある意味でもっとも私たちの人生に必要な知るべき仏教の知識であるといってもよい。近現代の日本では、西洋由来の心理学や精神医学をはじめとし、社会科学・自然科学としての精神分析が主流な学問であり、残念ながら、五十三種の心相応行のことなどその分野の人たちが深く感心をもつことは少ないが、社会科学・自然科学などはあくまでも世俗の学問であり、死を乗り越えて解脱を追求するために必要な学問ではない。
私たち仏教に関わるすべての人がこの心所法についてもっと関心をもつべきであり、自分自身の生と心をみつめて、慣れないうちは多少煩雑な気がするが、この心所法についてもっと関心をもち、人というもの、生きとしいけるものは一体どのような感情や思考をもつのか、ということについて説かれている如来の教えに心を傾けるべきではないか、と思われてならない。五十三種のひとつずつを毎日考えても二ヶ月もたたないうちに私たちはこれを理解することができる。よく考えなければ別に必要はないものであろうが、ひとつずつをよく考えていけば、それは価値があるものであることだけは、過去の先師たちが保証しているものである。五十三の心所のうち六根本煩悩や十一善の十七をしっかりと理解して日々の生活に活かすことだけでも、私たちの生は日々より有意義なものとしていくことができる。
五十三の心所や正しい認識とは何か、ということについて、幸いインド・チベットの仏教の伝統では、既に詳細な分析がなされてきたのであり、数百年しか伝統のない心理学や精神医学について何か複雑なことを学ぶよりも、遥かにこの心所法について学んだ方が実用的である。五十三の心所のひとつひとつの定義や分類、その心の動きの特徴、それがどのような影響を与えて、どのような問題を起こし、そのような問題を解決するためにはどうしたらよいのか、これらの詳細については別の機会にデプン・ゴマン学堂の善知識たちにまたゆっくりと解説していただく機会(2)現在デプン・ゴマン学堂の執事長を務めれておられかつて日本別院に滞在されていたゲシェー・チャンパ・ドンドゥプ師にウェルマン・クンチョク・ギャルツェンの『心・心所の規定の略説・自己相続を明らかにする鏡』というテキストに基づいて解説していただいたことがあるが、本記事はそのテキストに基づいてまとめたものである。ダライ・ラマ法王がハーヴァード大学で行った心心所の講義については『ダライ・ラマの仏教哲学講義―苦しみから菩提へ』に詳しいのでそれを参照されたい。AMAZON .CO.JPを設けたいと思うが、いまはまずはこの五十三の心所法を「失念」しないように、自らの心の動きを振り返りながら「尋」「伺」に「精進」したいものである。
注
↑1 | 通常「諸行無常」という場合には正しくは「一切の有為は無常である」と表現しなければならず、もちろん「集めて作るもの」であるという意味での「諸行」は無常であるが、仏教の根本的な命題を表す場合には、「一切の有為は無常である」と表現すべきである。しかしながらこの用語を概念の設定範囲に異同があり使われている例は、比較的古い時代からあるものであるが、漢訳ではその両者を明確に区別する訳語としては「有為」「行」というのがあり、チベット語はサンスクリット語と同じように微妙な音の違いしかない。 |
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↑2 | 現在デプン・ゴマン学堂の執事長を務めれておられかつて日本別院に滞在されていたゲシェー・チャンパ・ドンドゥプ師にウェルマン・クンチョク・ギャルツェンの『心・心所の規定の略説・自己相続を明らかにする鏡』というテキストに基づいて解説していただいたことがあるが、本記事はそのテキストに基づいてまとめたものである。ダライ・ラマ法王がハーヴァード大学で行った心心所の講義については『ダライ・ラマの仏教哲学講義―苦しみから菩提へ』に詳しいのでそれを参照されたい。AMAZON .CO.JP |