2021.08.29
གུང་ཐང་བསླབ་བྱ་ནོར་བུའི་གླིང་དུ་བགྲོད་པའི་ལམ་ཡིག་

他人の思想、自分の思想

仏典の学習法『参学への道標』を読む・第21回
訳・文:野村正次郎

誤りなき聖典をひとつずつ確実にして

その上で他の聖典と総合的に考察する

見かけたもののすべてを繋ぎ合わせて

どんなに追いかけても知性は失われる

自分の思想をしっかりと構築しなさい いざ

21

仏教を学ぶということは、世俗の学問を学ぶこととは異なっており、最低でも自分自身の死後のことを考えて学ばなくてはならない。さらに自分自身がこの輪廻から解脱するという目的のために学ぶ、さらには自分自身がすべての生きとし生けるものを苦しみから救済できる者たる一切智者になることを目指して学ぶ。これらの主体的な清浄な動機がなければ仏教を学ぶことには何の意味もない。

しかしいざ実際に仏典を学ぼうとしたら、如来のことばは八万四千もの法蘊があるといわれ、その思想は凡夫の思惟を超えたものである、とも言われるくらい甚深で難解なものである。如来のことばは現在経典のなかに閉じ込められおり、それは須菩提などの当時の仏弟子たちに語られたものであるが、その言葉を私たちは自分たちに対して語られたものである、と意識して学んでいかなければならない。

如来の言葉は深遠なものであり、その言葉を私たちのような浅薄な知性では計り知ることができないものである。だからこそ、如来自身が将来その言葉の意味を解説するであろう、と予言をして、その予言通りに如来の密意を注釈してきた龍樹、無着などのナーランダー僧院の大学匠たちの注釈書を手がかりとして私たちは学んでいかなければならない。仏説の注釈書には、『中論』や弥勒の五部法をはじめとし無着の『瑜伽師事論』『阿毘達磨集論』、世親の『倶舎論』や陳那や法称の論理学に関する『集量論』『量評釈』などの聖典、これらの多くの聖典のなかでまずは五大聖典と呼ばれるテキストを暗誦し、その意味を正統な注釈書に基づいて正しい善知識にただしく師事して学んでいかなければならない。五大聖典を学ぶことは、すべての如来の言葉やその注釈書を理解するための模範的な基準となるものであり、そのひとつずつのテキストにも、様々な議論や考え方が詰まっているので、その議論や考え方のひとつひとつを丁寧に学んでいくことがまずは基礎となる。

それではひとつひとつのテキストを丁寧に学んでいく、というのはどういうことなのか、といえばここで述べられているように、根本テキストをまずしっかりと学んだ上で、それに関係するテキストを合わせて総合的に考察する必要がある。

たとえば感覚とは何か、ことについても、根本テキストである『量評釈』にもさまざまな分析がなされている。感覚が捉える対象が認識の外部に存在している前提でそれが語られている場合もあるし、認識の外部には存在していない、として感覚というものがどのように起こっており、それによって私たちは「私」と思う際に具体的に「私」と名づけるその具体的な要素を捉えているのか、ということに詳細なる分析がなされている。まずはこれを『量評釈』に記されている記述を伝統的な注釈を通じて学んだ上で、同じダルマキールティの著作である『遼決択』や『正理滴』などと照合しながら理解していかなければならない。さらにその理解を『倶舎論』などで紹介されている毘婆沙師の考え方などと比較し、『入中論』では認識の外部の対象を想定するのは誤りであるとする見解などと比較して検討していかなければならない。その上で『入中論』が志向している『中論』ではこれについてどう説かれているのか、また『現観荘厳論』の小注でハリバドラはどのようにこの問題を注釈しているのか、そしてその『現観荘厳論』の当該箇所が注釈している『十万頌般若波羅蜜経』やその他の般若経ではこれについて如来がどのように説明しているのか、また別の経典ではどのように説明されているのか、このようなことを通じて私たちの感覚とは如何なるものであり、その感覚が「私」であると捉える我執こそが煩悩の根源にあり、この煩悩を断じるために空性を理解する智慧を推理により起こしていかなければならないし、その推理が正しく成立するためには、このような条件が必要である、というように知性が洗練され、より具体的に明瞭に知ろうとしていることを理解することができるようになるのである。

もしもこのように根本聖典やさまざまな聖典を読み進めて探究していくときに、その問題を自分自身の問題であると考えず、インドの誰々、チベットの誰々、何派のだれだれ、いついつの誰々がこうこう言っている、ということだけ追いかけていっても、ただ経文の文字面だけを追いかけているように過ぎないのであって、誰かに聞かれた時に「誰々はこうこう言っています。世界的な権威である何某教授はこう言っています。」と知識を披露できるかもしれないが、「それではその場合の無常というのをこういう風に考えたらこんなことになって矛盾しているように思われるんですが、どうしたらいいでしょうか」と聞かれた時には「そのことは残念ながら文献には書いてありません。ですから私は知りませんよ。」としか答えられない。

質問した人は「そうですか。文献に書いてないので分からないなら、まあ他の人に聞きますよ。私は無常ということや、人間が何であんなに元気に暮らしているのに死んでいくのか、ということが知りたいので、あなたは随分と沢山仏典をいつも読んでおられるので、ご存知かなと思いましたが、このあいだキリスト教の教会にいったときにそれは神の試練だと教わりました。どうもその時のお話の方がしっくりきます。それに何か金のネックレスを買うと死ぬ時も大丈夫らしいですよ。そんないいものがあるらしいですね。やっぱり死ぬのは怖いのですね。やはり今度から難しい問題があるときは仏教ではなくあの先生に教わります。」と見限られてしまい、そこでさようなら、なのである。

このような仏教の学び方しかできない人の間違いは、自分がやっていることが、誰かに東京駅の新幹線のプットフォームで渋谷駅に行く行き方を尋ねられた時に、すべての在来線と地下鉄とバスの何十ルートを披露して、有名人の誰々はこの路線を使いました。何月何日にまた女優の誰々は地下鉄の何々線に乗ってどこどこで乗り換えて行きました、ということを教えているようとしているのと全く変わらない点に気づいていないということにある。

東京駅の新幹線の乗客の殆どが新幹線の乗車券をもっており、その殆どは「東京都区内」で降車できる乗車券をもっているし、キャリーケースなど大きな荷物をもっている場合も多いし、道を聞くくらいなので、東京の中心部の乗り換えなどの経験も少なさそうなので、そのまま山手線外回りのプラットフォームを示してあげて、間違えて京浜東北線に乗らないように「青じゃなく緑色の電車に乗ってください」と教えてあげるのが一番である。その人と無関係な誰かがいつどの電車に乗ったとかも全くその人にとっては必要ない情報である。

これと同様に、私たち仏教を学ぶ者は、いつ誰がどう言ったということばかり追いかけていては、目的地として設定している仏の境地にたどり着くためには遠回りをしているのであり、限られた時間や自己の知性を無駄な知識を身につけるのに消耗し、自分自身の心を統御して、仏の境地へと向かっていくのではなく、俗世間の輪廻そのものの世界へと向かってしまう。たしかに多くの仏典をさまざまに紐解いて照合しながら、総合的に思索を深めていくことは極めて重要なことであり、仏典のことばを深く味わい、その意味を咀嚼していくことは極めて重要なことである。しかしそれは私たちひとりひとりの人間が仏になるためであり、私たち以外の他の人が仏になるためではない。自分自身がどの電車に乗るべきなのかを知らなければ間違った場所にいってしまうように、自分自身の思想を洗練させていくことは、仏道修行にとって不可欠なことである。本偈はこのことを表現したものである。

大切なことは路線がいくつあるかではなく、自分の乗る路線はどれで、どこに行くかである


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