2021.08.18
ཀུན་མཁྱེན་བསྡུས་གྲྭའི་རྩ་ཚིག་

自己を形成する個人的な経験と印象の塊

クンケン・ジャムヤンシェーパ『仏教論理学概論・正理蔵』を読む・第18回
訳・文:野村正次郎

眼等と集合して接触して

発生する受蘊は六つある。

同様に想蘊もまた六つある。

18

五蘊は、私たちの感情や思考というものをひとつの塊であると考えることをやめさせて、経験である受蘊、それが一体何かという心の印象である想蘊、そして様々な心の動きとそれ以外の物質でも精神的なものでもない行蘊に分けて、私たちの自身を構成する要素を仕分けして、それぞれの特徴に区別できるように教えようとしたものである、ということは以前の記事でも触れたが、ここではそのうち受蘊と想蘊とは何かということを述べている。

受蘊のうちの受とは、苦・楽・不苦不楽(捨)の三つのいずれかを経験するものである心相応行が多く集積したもののことであり、受それ自体は、行のなかの心相応行と呼ばれる心所に分類されるが、これがクラスター状になったものを「受蘊」と呼ぶ。苦・楽・不苦不楽の三つは受が経験している対象であり、これによって苦受・楽受・不苦不楽受の三種類の受があるが、これらが何を契機として発生したのか、ということを分析すれば、視覚・聴覚などの感覚を感じる眼・耳・鼻・舌・身・意の六つの感官と一同に集積し、その感官が苦・楽・不苦不楽の三つの対象に近接して接触することによって苦受・楽受・不苦不楽受のいずれかの経験が起こることから、受蘊は、眼根・耳根・鼻根・舌根・身根・意根などの感官などの増上縁によって分類すれば、六つになる。受蘊は六つであるというのは六根を増上縁として分類したものであり、玄奘三蔵はこの感官と集合し接触する経験を「触に随っているものを領納する」と翻訳している。

苦受・楽受・不苦不楽受はそれぞれ苦苦・壊苦・行苦の三つに対応するものであるので、四聖諦のうちの苦諦を理解する上でも受蘊とは何かということを正しく理解することが大切であり、同様に受蘊には、眼根・耳根・鼻根・舌根・身根の五根、色・声・香・味・触の五境などの感覚による経験だけではなく、意根とその対象である法処を発生の契機とするものも含まれることは非常に大切である。

受蘊を分類すると感官で分類して六種類、それに受が対象とする苦・楽・不苦不楽(捨)の三種類でも分類可能であり、その二つを合体した場合には、眼根を契機とする楽受などの十八種類を考えることができるが、それらのすべてをまとめると、身体的な経験(身受)・精神的な経験(心受)の二つにまとめることもできる。前者は物資とそれを感知する感覚によって発生するものであるが、後者は具体的な物質ではないものから発生する経験であり、「今日は何となく気分がのらない」「今日は何となく気分がいい」「今日は普通の気分だ」といった私たちが日常的に感じている「気分」のようなものはすべてこの受蘊にほかならない。

私たちのあらゆる行動や言動がこの気分のような曖昧なものに左右されていることは誰しも経験していることであろうし、気分がのらなければ仕事もはかどらなかったり、今日は他人にやさしくする気分ではないのでやめておこう、といった懈怠の心を起こしてしまったり、受蘊を契機としてあらゆる煩悩や業が起こるのは、すこし自分の生活を振り返って考えてみると誰しもが思い当たる節があるだろう。「体調が悪くて気分も乗らないので、今日は仕事をサボっておこう」というのは、身根によって発生する苦受が塊となって、「私は今日気分が悪い」と「私」を構成する要素として受蘊を強烈に意識しているわけである。この時にたとえどんなに素晴らしい歌手が素晴らしい曲を歌っているのを耳根から聴覚を通して聴き、耳根由来の楽受を経験していようとも、基本的に身受よりも心受の方が経験としての影響力は強いので、この機嫌の悪い人にとっては、耳根由来の楽受よりも、「気分が悪い」という精神的な経験(心受)の方が経験としてはより強く心に表面化しているわけである。そしてこの機嫌が悪い人にはどんなに美味しいご馳走を出したり、芳しい香のするキャンドルをつけてあげてもなかなか機嫌よくしてはもらえないし、むしろ心にもないお世辞を言ったり、面白い冗談をいったり、楽しい話をして、精神的な楽受を発生させた方が、精神的な苦受を減少させるのには、一時的に有効な方法ということになる。これが身受・心受とは基本的には別の経験であるということを物語っており、人は個別の経験に分けて理解せずに、経験を全体としてクラスター状態で捉えている、ということを表しているであろう。この経験の全体のことを「受蘊」と呼び、これが私たち人間の構成要素の主要なひとつである、ということが五蘊のうちの「受蘊」という考え方である。

この「受蘊」と同じように眼根・耳根・鼻根・舌根・身根・意根などの感官などの増上縁によって、それと合わさり、対象そのものをそれ自身の独自な特徴あるいは雑然とした全体として把握する「想」が多く集まってクラスター状になっているもの、これを「想蘊」と呼ぶ。「受」「想」の二つは、心所法としては心相応行であり、行蘊のひとつであるが、「想蘊」という「想」のクラスター状のものは、五蘊のなかでは「想蘊」として別立てしているのは、我々の煩悩や業がそれを起源として発生しやすいことにもよっており、「想蘊」もまた私たちを構成している要素のひとつとなる。

想蘊を増上縁たる六根によって分類すれば、受蘊と同じように六つとなるが、それ自体が対象の特徴を把握している無分別の想なのか、あるいは対象の全体を捉えている分別知である想なのかのいずれかの想の二つがあり、このことを玄奘三蔵は「像を取る」(取像)と翻訳しているが、この両方を合わせ多く集積したものが「想蘊」であり、これを理解することは、「像を取る」(取像)ということが如何なることを意味しているのか、を理解しなければならないので、これを若干説明しておこう。

たとえば澄み切った雲一つない暑い夏の紺碧の空の昼間に道端に向日葵の花が咲いているとしよう。私たちは空を眺めて見つめれば、そこには強烈な紫外線を放つ太陽もあるし、その太陽光線がまるで模様があるかのように、大地に注がれている。その空を麦わら帽子の隙間から見つめるとき、そこには青そのものである空がある。私たちの視界は青でいっぱいになり、その空が夏の空であるとか、快晴の空であるとか、太陽光線が放たれているという現象を見るのではなく、そこで私たちは青そのものを見つめている。これが青の視覚体験であり、青を捉える眼根がその青と合わさり、青に接触することから「これが青そのものだ」と見ているのである。同様に真っ黄色に咲き誇る向日葵に眼を向けると、黄色そのものを私たちは見ているのである。この黄色を見つめている時には、花びらの数がいくつあるとか、真ん中は茶色であるとかは全く気にしていない。視覚が感知しているものは「青」そのものであり、「黄」そのものであり、それ以外の何ものでもない。

青空の場合には「青」以外にも「明」という色彩も同時に存在しているが、私たちの視覚がそれを見つめて「青だね」と想って呟きたくなる時には、その対象そのものが他のものとは共通していない、排他的な特性である「青」だけを捉えているのであり、黄色の向日葵を見て「黄色だね」と思って呟きたくなる時もまた、向日葵の花びらの形も、中心の茶色の部分もあたかもなきもののように完全に無視して「これは黄色だ」という視覚による印象が起こるのである。これが感官知をもとに「像を取る」(取像)ということであり、これは言語や想像や思考などを介していない無分別な印象そのものである。このような印象は感官知が対象を確定する作用によって、他の特徴を把握することを排除しながら生起していることから生成されるものであるが、さまざまな物質の状態がある視覚には顕現しているけれども、その視覚がほかの対象ではない自らが対象とするものに対して確定を起こし、そのことによって「青である」という印象を形作っている。この印象のことを「想」と呼ぶのである。これらは視覚以外にも眼・耳・鼻・舌・身といった他の感覚器官でも同じような印象操作をしているのであり、これらが感官にもとづく対象像を印象化する身体的な想念であるということができる。

意根から発生する意識が印象操作する場合には、対象化する音声である言語と対象を他の対象から排除して作り出した対象像を同一のものとみなす認識、すなわち分別知によって対象像を印象操作する。「この人は私の友達である」「この人は私の敵である」「この羊は雄である」「この羊は雌である」「これは私のものである」「これはあなたものものであり、私のものではない」「この人は幸せそうな人だ」「この人は不幸そうな人だ」こういったすべての表象化、印象のすべては分別知によって対象そのものから対象像を孤立させて作り出したイメージに過ぎない。これが雑然とした全体像を捉える想であり、こちらは身体的な想念ではなく、精神的な想念である。

ひとつひとつの想は心が存在する限り常に存在するものであり、心そのものではないが、心とともに働いており、それ自体は善でも悪でもなく、受と同様に常に心とともにあるので「遍行」と呼ばれる心相応行に分類されるものである。したがって、受や想自体は、心がある限り決してなくならないものであり、表象化や印象それ自体が価値的に悪いものではない。しかしそうした印象や表象化が複数集まってクラスター状になっていくことで、対象自体の正しい姿は強く印象操作されてゆき、事実を正しく対象を認識できなくし、その印象に突き動かされた煩悩によって様々な業が起こってくるものであり、この印象の塊つまり「想蘊」は私たち自身を構成する重要な大きな要素なのである。「ここは私の場所である」「これは私のものである」「彼は悪い人だ」「あの人たちさえいなければもっと私は楽しい」といった印象の塊が如何に私たちを惑わし、狂わせ苦しめているのか、ということは冷静に考えれば分かるであろう。「あいつがあそこにいた時にあんなことがあったので、私はいま辛く不幸である」と他の衆生を恨み憎んで害したい、という印象の集合体は私たちを破滅へと導くことは誰しもが分かることであろう。しかしながらそれについて普段から私たちは自分たちが無意識のうちにさまざまなものを印象操作し、それをもとに様々な行動や言動をしていることに無関心である。だからこそ、この「想蘊」というものを私たちはしっかりと認識しなくてはならないのであり、これが自分たちの存在の二割くらいを占めている、ということを教えるもの、これが「想蘊」なのである。

受蘊や想蘊は、私たちの心が存在する限り常に存在している遍行の塊であり、それは我々の物質的な身体である色蘊のように死んだからといって捨ててしまうことができないものである。たとえば死後呪い出てしまう怨霊などの存在は、臨終時に識蘊へと収斂していった受蘊や想蘊が再生時にふたたび受蘊や想蘊を形成する過程で前世の習性化した経験や印象操作が復元されていくことによって起こっていく。物質的な身体はこの身体から離れていくのと同時に完全に離脱可能であるが、受蘊や想蘊識蘊などの他の精神的なものは、そう簡単に捨てられないのが厄介なのである。しかし私たちは自分たちが気づかずに習慣化している経験や印象によって、何も考えずに生きて不幸の底へと落ちていく必要はない。受蘊や想蘊は通常は苦しみの原因であるが、遍行であるからこそそれを善なる経験や印象へと自らの精神を統御して、善なるものへと変えていく自由をもっている。「すべての衆生は私の母である」「すべての生きとしいける者のために修行する者は私なのである」といった印象操作はそれ自体善であり、その結果は苦ではなく、楽であり、幸せを実現するものである。受蘊や想蘊とは一体何かということは私たちがこのような生の態度の転換のために、それが何であることを正しく知るための重要な手がかりではないかと思われる。

夏空の向日葵それ自体ではなく、それと私たちはどう関わるのかに問題がある

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