2021.08.07
བྱམས་པའི་བསྟོད་ཆེན་ཚངས་པའི་ཅོད་པན།

崖の淵に立って考える、これからのこと

ジェ・ツォンカパ『弥勒仏への悲讃・梵天の宝冠』を読む・第18回
訳・文: 野村正次郎

この光景を眼にすれば勿論だろう

聞くだけでも恐ろしい惨劇である

地獄 餓鬼 畜生 そして修羅道

さらに険しい崖の底へと堕ちてゆく

賢者が咎めるこの罪業は深く重く

無始以来 そしてこれからも積集する

崖の淵で前を向くが弱りきったこの私を

悪趣の恐怖から救い給う時がやってきた

22

私たちは偶々運が良くいまは人間に生まれることができている。人間はお互いに思いやりをもち、他者を愛し、自分よりも他者を大切にして善業を積むことができる。できるだけ他の生物に苦しみがもたらされないように、そのために様々な工夫をして生きることができる。だからこそ人間として生まれているこの人身は、如意宝珠よりも価値の高いものである。私たちはいま、人間としてここに存在しているだけで、この無限の価値を享受し、無限の未来をみつめて生きることができる。

しかしもしもいま、私たちが地獄の衆生として生まれたらどうだろうか、餓鬼として決して途絶えることもない、死ぬこともできない飢えや渇きの激痛を享受していたらどうだろうか。畜生道に生まれたからといって何もいいことはない。他の動物に食われてしまうか、神々や人間の奴隷として労役を強いられて、時には気分もすぐれないときでも、飼い主のために尻尾をふって食事を与えてもらうための努力をする必要がある。せっかく神々のように堅固な肉体と特殊能力を備えて生まれたとしても、阿修羅に生まれてしまえば、その生まれたその瞬間から絶え間ない戦闘と謀略に翻弄されながら生きなくてはならない。そのような境涯に生まれることの最大の難点は、何一つよいことなどできないし、何一つその状態を寿命が自然に尽きるまで改善できない、ということである。私たちは無限の過去からさまざまな境涯に生まれてきて、実際に地獄の光景、餓鬼の苦しみ、畜生道の悲劇、修羅道の闘争を数多く体験してきた。しかしながらそれらの光景を鮮明に記憶に呼び起こすことができないのは、その苦しみの身体を捨てて死んでいく時の苦痛、そしてここに生まれてくることの苦痛、それがそれらの激痛よりもさらにひどいものであり、あまりにも激しい激痛を経験したので、記憶の片隅に追いやっていまは思い出せないような殻に閉じ込めてしまっているからなのである。

地獄、餓鬼、畜生、そして修羅道、これらは悪趣と呼ばれ、その悪趣として生を受けるその最大の原因は他者を軽んじ、自己の利益のために他者を傷つけてきたという罪業による。だからこそ賢者たちは愛と非暴力を説き、私たちはそれを実践することで悪趣から逃れることができるはずなのである。しかし怠慢で自己の欲望に身を任せていきている私たちは、無限の過去からいままでも、そしてこれからもこの深くひどく酷い罪業を積んでいくことをやめることはなかなかできない。毎日朝起きて夜寝るまでの間、さまざまな生物、さまざまな他者に私たちは出会っている。しかしそれらのひとつひとつの出会い、そして彼らと同じ時と同じ場所で過ごしていることを大切にできてはいない。だからこそ私たちはこの状態をなんとか改善してもらえないか、そう如来たちに呼びかけ、この苦しみから何としても逃れようとするのである。そしていまがその時である、このことを本偈は説いている。

ここでは悪趣の苦しみに思いを寄せることが説いているが、悪趣に思いを寄せるということは仏法僧こそが救済であるということを知ること、そしてそれらの惨劇の原因が不善業の結果であること、そしてそのような苦しみを私たちが本来は望んでいないし、幸福を望んでいること、幸福を私たちにもたらすものが他者に対する愛や慈悲から生まれるものであること、そしてそのために利他行を実践することに励むことこそが、私たちがここに生きていることの最大の目的であり、その目的の実現のために昼夜六時邁進して決してその手をとめないこと、これが人生の意味である、ということを説いているものである。

死という無常を思い、悪趣の苦しみを考え、ほかの衆生に生まれた場合にどんなに辛いことなのか、これを考えるのは何か現実離れした空想を巡らせるということでない。仏典や菩提道次第論などでも悪趣の苦しみは具体的により現実的に想像することが繰り返し説かれているのは、それらの状況を考えることによって、いまここに生きているときに為すべきことに精進し、善業を悦びとして、ほかのことにかまけることもなく、不用意に自分を卑下することもなく、この私たちひとりひとりの存在が他者に対して何か少しでも役にたてることをしようと邁進する方向へと我々を鼓舞するためである。釈尊は弟子たちに善への精進こそが、幸福を実現するために実際に必要な生の態度であるということを繰り返し説かれている。この先の未来において、私たちは悲劇へと向かっていくのか、寂静の城市へと向かっていくのか。悪趣の苦難や悲劇を記憶すること、それらは私たちがいまこの崖の淵にたち、これまでのこと、これからのことを考えることなのだろう。

崖の底に落ちて白骨となるよりは、引き返し他者に役立つ生を生きる方がいいことがある

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